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 人間は様々な経験をとおして成長します。ある時点で新しい悟りのようなものを得て、それまでの行動パターンを変えることもあります。イエスにもやっぱりそのような変遷があったと思うんです。

「イエスは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従うすべての人に対して、永遠の救の源になられた」(ヘブル書5章7〜9節)。

 「さまざまの苦しみによって従順を学んだ」ということは、イエスも経験をとおして学ぶべき何事かがあったということです。そして「全き者とされた」と。こうしたイエスの姿の奥に、イエスの内面のドラマといったものがないはずがないんですね。
 

■イエスの祈り


 イエスの内面を垣間見ることができるのは、祈りにおいてです。イエスは常に祈っておられ、祈りからすべてが出ていたわけです。

 福音書を見ますと、ご自分の使命を開始される時、つまり洗礼の時にも「祈っておられた」(ルカ3章21節)。

 最期の十字架上で亡くなる時も、「我が神、我が神、なにゆえにわたしを捨てたまいしぞ」(マルコ15章34節)と、それが苦しみの現れであれ希望の現れであれ、彼の公生活の始めから終わりまで祈りに貫かれているように思うんです。

 十二弟子を選んだ時も、「イエスは夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出した」(ルカ6章12、13節)。

 主の祈りを教えた時も、「イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください』。そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように…』」(11章1、2節)。

 あるいは晩餐のシーンでペテロに「サタンはあなたをふるいにかけようとしている。しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないようにと祈った」(22章31、32節)と。

 こう見ると、イエスの祈りはいつも具体的なその場その場で出会う事柄と密接に関わっているんです。イエスは祈りという形でご自分の父との関係を、生きていくこと、そして使命を実践していくことに必須のものとして持っておられたという感じがします。

 その祈りの内容の特徴がよく現れているのは、マルコ14章35、36節のゲッセマネの祈りです。

 「地に平伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、『アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください』」。

 ここにはイエスの祈りが凝縮されています。明らかに〈わたしの意志〉と〈神の意志〉が対立しているんです。その中で「アバ、父よ」と呼びかけているわけです。

 つまり、イエスにとって、ご自分の神とのつながりというものが、どんな状態にあっても一番最後まで保たれた根本ラインであったと思われるんです。彼は祈りの中で父から何かを聴き、習い、そして自分自身も父に対して自分の思いをぶつけていた。そして最終的には、その状況の中で父の意志を求めていった。

 「わたしは自分からは何一つできない」(ヨハネ5章19節)という言葉もありますけど、イエスは次々と変わっていく具体的な条件の中で、次の一歩、次の一歩を、その時々、自分の神に確認していく必要があったんだと思います。そういう意味でイエスの祈りは、生きるために必要な祈りであったと思うんですね。祈りが根本的なイエスの存在様式になっていたからこそ、イエスご自身の中に父なる神の姿が現れてきたわけでしょう。

 このことをヘブル書12章においては、「信仰の導き手、またその完成者であるイエス」(2節)という言い方をしているんです。つまり、信仰するということの典型的な形なんです。「信仰の導き手」というのは「創始者」と訳すこともできます。つまり、初めて信じるという形での生き方を提示した人ということです。そしてそれを完成した方であるということなんですね。
 

■イエスの変遷・進歩


 イエスの福音は揺るぎないものであったでしょう。しかし、いつも変わらないテンポで宣教を続けたかというと、彼自身の中に「思い直し」というものがあったんじゃないかという気がするんです。イエスが福音を宣べ伝え始めた頃は、力ある業を行い神様の御旨を実現していく。いわば自分のミッションに成功していたと思うんです。

 ここで一つの危機が来ます。学者たちは「ガリラヤの危機」と表し、逆にそれまでのことを「ガリラヤの春」と表します。つまり彼の支持されていた行動が曇りを帯びてくる。四つのどの福音書もこの「ガリラヤの春」から「ガリラヤの危機」に移る切れ目を置いています。ルカでは明白に9章51節なんです。
 「イエスはエルサレムへ行こうと決意し」。
 それ以降はエルサレムに向かう途上の事柄として描かれる。つまり十字架で亡くなっていく道が9章51節で始まっているんです。その時イエスは、ある意味ではそれまでとは違った強調点を持った使命を、もう一度受けとめていったんではないかと思うんです。

 一貫しているのはご自分の父に対する全きゆだねだと思うんです。捕らえられ、殺されることがかなり確実になってきた時、イエスとしては、神の御旨にまったく自分をゆだねる以外にないということです。

 自分を取り巻く状況が、ある種の失敗、挫折という形になってきて、この先どう進むかわからない。それまでの神の国の宣教は、「わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見た」(ルカ10章18八節)とあるように、サタンの悪しき力が完全に打ち負かされたという、神の国の勝利宣言のようなものです。ところが逆に悪の力が神の力を覆い尽くそうとしている。

 そこでイエスは、悪に打ち勝つのではなく、悪しき力を我が身に受けとめ、担っていくというふうに、自分に与えられた使命や神の御旨を見るようになっていったのではないかと思うんです。これはある意味、誰にもよく理解できないことです。しかしながら、そのすぐにわからないところにこそ神の御旨があると感じるようになったんじゃないかと思うんです。その行く先はご受難であり、十字架です。

 イエスは一貫して変わらず神と共にいたけれども、状況に従って、神信仰に変遷あるいは進歩とでもいうものがあったのではないかと思うんです。ですから「さまざまの苦しみによって従順を学び」(ヘブル5章8節)と。イエスは父の御旨を新しい段階で見出し、そのあるがままを受けとめていったのだと思うんです。そういう中で神の意志が指し示しているところは、「悪の力に押しつぶされるのがあなたの務めです」ということなんでしょう。

 ですからこそゲッセマネの祈りがあり、「我が神、我が神、なにゆえにわたしを捨てたまいしぞ」という、先の見えない人の祈りがあるのだと思うんです。ですからイエスを捕らえに来た人々に「今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」(ルカ22章53節)と、神の支配の到来を告げた者が「やみの支配の時である」と言ってるんです。

 たぶん、神の無限の愛、赦しというものは、悪に打ち勝ってしまったら、その完全さが失われてしまうと思うんですよ。もし受難に現されたイエスの姿で神の愛が示されなかったなら、人はまだどこかで恐れを抱くと思うんです。だから全き神の慈しみが、悪に押しつぶされるような形でだけ、純粋に示されたんだと思います。イエスはこのようにして「神の御言葉となれ」と言われたんでしょうね。

 ですからある意味で、イエスの中には自分がない。最後まで受け尽くして死んだ。そういうみすぼらしい中でイエスを成り立たせていたものは、神の意志です。そこに「わたしを見た者は、父を見た」(ヨハネ14章9節)ということが実現したんでしょうね。
 

■等身大で信仰を生きる


 一昔前のカトリックでは、イエスが何かを「知らなかった」とか「思い直した」と言うことを控えていたんですね。それを欠点と見たからです。しかし欠点であるよりも、人間の条件だと思うんですよ。イエスがもしすべてを知っており、すべてを自分で決め、行っていたとすれば、父なる神を現すことはできなかったと思うんです。まさに本当の父に対する信仰が、すべてを成立させていたと思うんですね。

 こうしたことの私たちにとっての意味はさらに大きいと思うんです。私たちは信仰を持ったからって何でもわかるということはないわけですよね。人間の条件の中で、苦しみがある、矛盾を感じる、どう先に進んでいいかわからない。そして、イエスも、思い直しの時があった。このイエスの生涯の流れを見たときに、より良くキリストに従うということ、自分の生き方とまったく重なるような「等身大の信仰」ということが、もっと可能になるんじゃないかと思うんです。

 自分が味わっている様々な困難とか疑問は、あの方が既に通られた道なんですよね。このイエスの道−その苦しみによって従順を学び神についていく、新しく来る段階というものに開かれている心、学ぶ心−そうしたことが非常に重要ではないかなと思うんですね。そういう中で初めて、信仰するということと生きるということがバラバラのことではなくなり、自分の中で責任を持って生きていくことができるようになるんじゃないかなと思うんです。
 

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2006年4月7日放送
第13回「イエスの運命」