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■イエスの死の意味


 イエス自身の存在の意味、その福音の意味は、その死に最もよく現れているというか、そこに凝縮されていると思います。最終的には自分の命を捨てるまで人を愛する。「神様がそこまであなた方一人ひとりを愛しておられる」というこの福音、いわば山上の説教の精神のようなものを、イエスご自身、ご自分の命と身をもって成就されたということなんです。ひと言で言えば、「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15章13節)それが福音の中心的な教えでありますし、さらにその奥に目を向ければ、「わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ5章8節)。これに尽きるわけですね。そうしますと、イエスの死は、彼の教えの総括、究極であるということになります。一歩進んで言えば、神ご自身の人への語りかけが極まった点であるということになるかと思うんですね。

 四つの福音書はイエスの受難と死を語る〈受難史〉というものを含んでいます。この受難史をどのように読むかということになったとき、やはりそのまま、黙想のような形で、書かれたイエスの受難と死を偲ぶという素朴な形が、イエスの死の意味を最もよく忠実に伝える事柄になるんじゃないかと思うんです。そこで、信仰者の心をもって黙想してみたいと思います。

 

■黙想−イエスの受難に見る人の罪の深淵と神の愛


 まず、晩餐が終わって、イエスはゲッセマネの園に出向きます。この道すがらイエスは言います。「

 今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」(マタイ26章31節)

 弟子たちはイエスに最後までついて来た人たちです。しかしここまで来たときに全員がイエスの苦しみについていけなくなった。弟子のイエスに対する愛も、忠実も、信仰さえもそこでつまずく。ここで起こることは、人間が受け入れられるものを超えているからであります。そしてそこで起こることは、最終的には神の愛の証しなのです。たぶん私たちの信仰も、この神の愛においてほとんど必然的につまずく箇所だろうと思います。

 このゲッセマネへの道というのは通常の道ではありません。神様がイエスにだけ課した特別の使命であります。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺されるべきである」(マルコ8章31節)。

 この「べきである」という言葉は神様の特別な意志を表しています。イエスはその闇に入っていくわけです。父の愛、神との親しさということから離れていく経験に向かっていくのです。

 「キリストは、神であることを固守すべき事とは思わず、おのれを空にして奴隷の姿をとられた。」(ピリピ2章6、7節)

 神の命の充満が、被造物の限りあるもの、空しいものの中に入ってこられた。神の強さが、人間の弱さに入っていく。これは神様自身にとっての一つの大変な出来事であります。そしてもしそのようなことがなかったとすれば、私たち一人ひとりの人間とは関係のない神様になったと思います。私たちの救いではない方になったと思います。イエスがここで辿ろうとしている運命は、神ご自身の運命であります。神が己を空しくし、自分の本質というものを無にしようとしている。人間の心に来るために。こうしたことはある程度以上は理解を超えることであります。そこには神ご自身の計り知れない御心があります。計り知ることができないのは当たり前です。そのようなものだからこそ私たちの救いとなられたということであります。

 「一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、『わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい』。そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた」(マルコ14章32、33節)。

 この三人は、その少し前のところで〈ご変容〉という事柄に立ち合った三人です。タボル山において、イエスの衣は真っ白に輝き、その右と左には旧約聖書全体を象徴するモーセとエリヤがいたと。つまり旧約における神の御言葉をすべてこの光輝くイエスが担っておられる、神の御言葉はすべてここで実現したと変容は語っています。このタボル山での目撃者となった同じ三人が、ゲッセマネにおいてイエスの苦しみの目撃者となったということは偶然ではないと思います。あの〈変容〉は、実際に実現したのはタボル山ではなくて、ゲッセマネにおいてだと思うのです。そこで古い約束は完成した。そしてたぶん、変容したんです。輝かしい姿というのは、最も苦悩に満ちた空虚を神の子が体験されたという形で実現された。〈命のあふれである神〉と〈空しさの中に生きる人間〉とが結ばれた地点というのは、このゲッセマネだと思います。このことは誰にとってもつまずきであります。

 「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。」(マタイ26章31節)

 この三人の弟子たちも「あなたの行くところどこへでも行きます。あなたのためには命をも惜しみません」と一時間前まで言っていた。しかし実際はそこにおいて皆、眠りに逃げていきます。十字架から逃げるのです。そこに眠っている姿は私たち自身の姿でもあると思います。

 このゲッセマネにおける苦しみを聖書は「イエスは恐れおののいて言われた。『わたしのたましいは死ぬほどに憂えている』」(マルコ14章33、34節)というふうに書いています。それは単なる肉体的な苦しみではなくて、〈罪が与える死〉というものの苦しみだと思うんです。後にこのことを「世の罪を身に負われた」(1ペテロ2章24節)というふうに表現しています。

 イエスがゲッセマネで直面していたのは、たぶん、人間の罪であります。イエスはそこで、具体的なこの人、あの人の罪ではなくて、それをとおして、世界の罪、いわば罪の深淵のようなものを見ていたのではないかと思うんです。人類全体の悪の神秘とでもいうものに面と向かっておられたのではないかと思います。キリストは、人間の生きるあらゆる次元に染み込んだ罪というものを経験されたと思います。実際にその後、宗教当局、大祭司の都合、あるいはその僕の残酷な心、そしてイエスを捨てた弟子たちの卑怯さ、弱さ、ピラトの政治的都合、こうしたあらゆる人間の弱さとか嘘とかご都合主義とか卑怯さとか、あるいは人間の根にある劣情、悪しき感情の積み重ねの中で、イエスの受難が成立しています。「世の罪を身に負った」という言葉は、文字通りそのまま理解することができます。そしてイエスはこうした罪人の中にあって、「自分はこういう人とは関係ない」というふうに線を引くことをしなかったのです。死に至るまでその人たちを愛した。そして愛した人たちが自分を殺そうとしていた。殺そうとしていた者と一つになろうとしていた。そこに彼の苦しみの一番深いところがあったんじゃないかと思います。

 イエスは「神の国が来た」ということを確信し、宣べ伝え、実現していくことを切に望んだ。ところが今、どうなっているのか。世の罪の力が神の力を押し潰そうとしている。今まで自分が行動したこと、語ったことは全部無駄だったのかという闇の中で、ただ「神の意志だ」ということだけしかわからない。そしてその神からさえも見捨てられたという実感を持っておられたのではないかと思います。

 「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」(ルカ22章42節)

 イエスが弱さに震えながら、恐れ、苦悩し、「できれば取り去ってください」と願った、こうしてギリギリなんとか受けとめたこの杯というものがなければ、人類は新しい契約の杯を持つことはできなかったのです。

 このゲッセマネというところはたぶん最も救いのない状態、人間が経験するあらゆる不条理、孤独、弱さ、ここには誰も来てくれないという状態です。しかし、そういうところに先に神様の愛が行って住み着いてくださったということです。私たちがどんなにひどい状態になっても、「もう神様なんか信じられない」と思っても、「誰も、神様だって来てくれない」と思う状態の時にも、「いや、既にゲッセマネに神の子キリストは来ておられた」ということです。だから、この世の中で、どのような空しさも、深淵も、罪も、闇も、神様の愛よりは深くない。神様の愛がそこに先回りしてくださっている。そのことを示す、というよりも実際に実現してくださったのがゲッセマネではないかと思います。

 ピラトはイエスに茨の冠をかぶせ、鞭打ち、そして人々に示します。「この人を見よ。」(ヨハネ19章5節)

 いったい「この人を見よ」という「この人」の中に何が現れているのでしょうか。イエスの無残な姿は、人の罪の現れ、私たち自身の姿の鏡であるかもしれません。出口もない、自由もない、希望もない。パウロは後に「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さった」(ガラテヤ5章1節)と述べています。ご自分が縄目を受け、罪のの中に入り、それをとおして、同じ縄目にあった私たちを自由へ解放してくださった。罪にさえも、あらゆる私たちの心、問題、桎梏の中にも入ってきて解放してくださる。それがキリストの受難であると思います。ですから私たちがもうどうしようもないところまで来たと思うとき、とんでもない袋小路の中にあると思ったとき、その時にもキリストが来てくださるという信頼を持つことができます。
 

■世に立ち続ける十字架


 「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。…わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵であるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(1コリント1章17〜25節)

 パウロは「十字架の言」と言ってるんです。キリストがつけられた十字架、それがあるお陰で私たちは救われている。これが神の力であり、神の知恵である。それが神が発せられた私たちへの言であると言っているわけですね。このキリストの十字架は、それ以来ずっとこの世に立っています。人の世は二千年経ってもそれほど良くなっていません。罪や悪意の中でずっと十字架は立ち続けています。そしてその奥にあるのは、神の愛、その愛の愚かさです。この世の中には様々な素晴らしいものがありますけれども、山上の説教で言われているように「その他のものはすべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6章33節)そういう世界全体を一番奥で支えているものは、キリストの十字架であります。そこにおいて、すべてを捨ててかかっている神様の愛があるからこそ、その他のこの世のものが輝き、明るく照らされている。この一点において世界は支えられている。そのように考えますと、主イエスの受難というのは単に信心の言葉であるよりも、イエスの死というものの最も根本的な意味を誤りなく語っていることになるのではないかと思います。
 

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2006年5月5日放送
第14回「主イエスの受難」