インターネットラジオ
TOP・番組FEBCとはCD Shop聖書通信講座メール教会紹介月刊誌リンク
番組表番組の聴き方
恵子の郵便ポスト 吉崎恵子
主イエス・キリスト 岩島忠彦氏
主の祈りー主イエスと歩む旅 平野克己氏
主よ、あなたが歩かれる道ならば 井幡清志氏
あなたに話したい 晴佐久昌英氏
ひとりを捜す神 広田叔弘氏
信仰のないわたしを 横野朝彦氏
旧約聖書のこころー詩編 雨宮 慧


 
パウロはコリント人への第一の手紙15章において「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの信仰は空しい」(14節)と言っています。それに続く箇所では、「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる」(19節)とまで言っているわけです。キリスト教のごく初期に、たぶん最重要人物であったパウロという人にとって、「復活」が彼の信仰の核心にあったということが察せられます。パウロのみならず、もし復活という事柄がなければ、キリスト教そのものが誕生しなかったと思いますし、それどころか「イエス」という名前も歴史の中で消え去ったかもしれないと思うのです。そこで、イエスの復活というのは何なのだろうか、聖書はどういうことを証言しているのか、どういう意味がそこには込められているのか、正しい理解を求めてみたいと思います。

 

キリストの顕現が与えたもの


 
「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『あなたがたに平和』と言われた。」(ヨハネ福音書20章19節)まずイエスが現れたということが書かれています。期待して扉を開けて待っていたんじゃなくて、戸を閉じて、なんら期待していないのに、向こうから現れた。「そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。」(20節)手とわきには当然、十字架の釘の傷痕があったわけです。これは何を意味しているか。あの十字架で血を流したイエス以外のどなたでもないという、アイデンティティーの確認とでも言えることが、手とわきとを見せた一番中心的な意味だと思うんです。それと同時に、復活のキリストの顕現にしばしばあるのは「あなたがたに平和」という挨拶の言葉です。そして「弟子たちは主を見て喜んだ」とあるんです。つまりキリストの出現は、そこにいる人たちに心底の喜びとか安心感とか平和というものを与えたのだと思うんですね。「イエスはまた彼らに言われた、『あなたがたに平和。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす』。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』。」(21〜23節)ここで、聖霊が与えられる、そしてそれに続いて罪を赦す権能が与えられるということが言われているんです。たぶん、まずは、イエスを捨てて逃げ去ったこととか、そういう自分の罪が赦されるという体験でもあったんじゃないかと思うんです。

この出会いをとおして、ここにいる弟子たちは、一方で、他でもないあのイエスがここに生きておられるということは確実だという認識がある。それと同時に、自分たちが平和を体験し、喜びを体験し、さらに神の命に満たされ、生かされる経験をしている。そしてその延長に「父がわたしをおつかわしになったように、あなたがたをつかわす」と、イエスが持っていた使命が与えられる。そして実際にこの人たちが軸になって最初の教会を作ったんですね。

その時にトマスという弟子だけはそこにいなかった。そこで皆が「主が現れた」と言った時に、トマスは「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとに、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ってるんですね。「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。」(26〜27節)実際にイエスが今ここに現存しておられることを体験する。それがこの傷痕に手を突っ込むというような表現で表されています。もう一つ注目されるのは、その時トマスが言ったことです。「わが主よ、わが神よ」(28節)。つまりトマスがそこで体験したことは、ただ昔の主がここにおられるということだけではなくて、この方は今、私にとって主と崇め、神と崇める方であるということを認識しているんです。
 

イエスとの新たな出会いの経験


 
史実として言えることは、イエスは十字架につけられて死んで、その時に弟子たちは彼を見捨ててバラバラになろうとしていたということ。そしてそれから間もなく、はっきりとした復活の信仰宣言を持った教会があるということなんです。その間にいったい何があったのか。それを「復活」だと言ってるんですね。

聖書学などにおいては「復活(Resurrection)」という言葉と「復活経験(Easter Experience)」という言葉をはっきり区別しています。もっと平たい言葉で言うと、「イエスとの新たな出会いの経験」ということです。この出会いは、出会った人の心の中にもいろんな影響を与えるわけです。

イエスの直弟子がイエスと出会ったということは、まず、あの死んだはずのイエスがここにおられるということで、それはもう疑いようのない現実なわけです。しかしそれだけではなくて、あの方なんだけれども、あの時の感覚ではないということがあるんです。この方はメシアとして、主として、もう神と一体となっておられる方であり、そしてすべてに満ち満ちている方であるという、パウロの言い方をすれば「死者からの復活により神の子と定められた」方であるという体験がある。それと同時に自分のほうでは、平安、罪の赦し、新しい神の命、聖霊の賜物を受ける、そして自分自身が変えられていく、そういう経験でもあり、さらに、そうした変えられた自分が新しい使命を受けているのです。私はこれを「出会いの客観面と主観面」というふうに言うんです。出会った相手を客観的に見て、この方は生きておられる、そして神の子であるというのと同時に、自分自身が変えられるような、自分の主観に与えてくる影響ー救われて新たな使命を受けるーそうしたものがあったんだと思います。

そういうふうに考えますと、この出会いは通常の現象では表現できないものです。何か声を聞いたとか見たとかいうことでは、自分がそこまで変化するということはないんです。ですからそこには確かに「復活経験」と呼ばれる出会いの経験というものが、ひとつの歴史的な事実としてあり、このような出会いをとおしてすべてが始まったと思うんです。
 

キリストの復活の意義


キリストの復活はいったいどんな意義を持っているのか。第1に啓示的な意味です。復活について聖書は「神がこのイエスをよみがえらせた」(使徒2章24節他)というように、神の業としています。イエスは、神からの福音を説いて、いわば挫折し、宗教当局から殺されたわけです。ですからそのまま終わってしまえば、あの方が言ったことは良いことだったかもしれないけど、それだけのことだと言えないこともない。それが、この復活において、イエスの生も死も、そして復活も、全体として神ご自身のご意思の現れ、もっと言えば、神の赦しと愛の現れそのものであるということが明白になった。いわば福音が確定した出来事であるということが言えると思うんですね。

第2に、死に対する勝利ということです。パウロは「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。(一コリント15章55節)と言っています。人間の最後の敵、死というものは、この死をとおしての復活によって、最後のとげを抜かれたわけです。そしてキリストの復活だけではなくて、ありとあらゆる人間の死からの解放を保証しているわけです。キリストは「命の導き手」(使徒3章15節他)、まさに先に立って死を超えた命へ我々を導いてくださる方であり、死への勝利ということが復活の重要な意味であると思います。

そして最後に、キリストはここに現存しておられる、そしてキリストのあるところ、神の霊がある、神ご自身がここにおられる、その命が分け与えられている。正確に言うと、神の現存としてのキリストの現存というものがどこにも普遍的になったということです。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。」(マタイ28章18節)こういう復活のキリストはいつも近くおられるというのが、私たちにとっての意味だと思うんです。キリストの近さ、それはそのまま神の近さでもあるわけです。そういうキリストの現存という事柄が、復活の我々にとっての一番大きな意味であろうと思うわけです。それは、今、私たちがキリストを信じているというのは、その方が今現在ここにおられるからなんです。マタイ福音書の一番最後の言葉は「見よ、わたしは世の終りまで、日々あなたがたと共にいる」(28章20節)という言葉ですよね。この言葉は復活の現実の一番重要なことを示しているんじゃないかなと思うんです。

 

↑ページトップへ

番組ページへ戻る

番組ページへ戻る

2006年6月2日放送
第15回「復活」