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■キリストの顕現が与えたもの | |
この出会いをとおして、ここにいる弟子たちは、一方で、他でもないあのイエスがここに生きておられるということは確実だという認識がある。それと同時に、自分たちが平和を体験し、喜びを体験し、さらに神の命に満たされ、生かされる経験をしている。そしてその延長に「父がわたしをおつかわしになったように、あなたがたをつかわす」と、イエスが持っていた使命が与えられる。そして実際にこの人たちが軸になって最初の教会を作ったんですね。 その時にトマスという弟子だけはそこにいなかった。そこで皆が「主が現れた」と言った時に、トマスは「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとに、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(25節)と言ってるんですね。「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。」(26〜27節)実際にイエスが今ここに現存しておられることを体験する。それがこの傷痕に手を突っ込むというような表現で表されています。もう一つ注目されるのは、その時トマスが言ったことです。「わが主よ、わが神よ」(28節)。つまりトマスがそこで体験したことは、ただ昔の主がここにおられるということだけではなくて、この方は今、私にとって主と崇め、神と崇める方であるということを認識しているんです。 | |
■イエスとの新たな出会いの経験 | |
聖書学などにおいては「復活(Resurrection)」という言葉と「復活経験(Easter Experience)」という言葉をはっきり区別しています。もっと平たい言葉で言うと、「イエスとの新たな出会いの経験」ということです。この出会いは、出会った人の心の中にもいろんな影響を与えるわけです。 イエスの直弟子がイエスと出会ったということは、まず、あの死んだはずのイエスがここにおられるということで、それはもう疑いようのない現実なわけです。しかしそれだけではなくて、あの方なんだけれども、あの時の感覚ではないということがあるんです。この方はメシアとして、主として、もう神と一体となっておられる方であり、そしてすべてに満ち満ちている方であるという、パウロの言い方をすれば「死者からの復活により神の子と定められた」方であるという体験がある。それと同時に自分のほうでは、平安、罪の赦し、新しい神の命、聖霊の賜物を受ける、そして自分自身が変えられていく、そういう経験でもあり、さらに、そうした変えられた自分が新しい使命を受けているのです。私はこれを「出会いの客観面と主観面」というふうに言うんです。出会った相手を客観的に見て、この方は生きておられる、そして神の子であるというのと同時に、自分自身が変えられるような、自分の主観に与えてくる影響ー救われて新たな使命を受けるーそうしたものがあったんだと思います。 そういうふうに考えますと、この出会いは通常の現象では表現できないものです。何か声を聞いたとか見たとかいうことでは、自分がそこまで変化するということはないんです。ですからそこには確かに「復活経験」と呼ばれる出会いの経験というものが、ひとつの歴史的な事実としてあり、このような出会いをとおしてすべてが始まったと思うんです。 | |
■キリストの復活の意義 | |
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2006年6月2日放送
●第15回「復活」●