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■最古のキリスト論 | |
まず、「キリストは神のかたちであった」。それに続いて「神と等しくあること」という言い方をしています。次に、「神と等しくあったもの」が、「自分をむなしくして奴隷のかたちをとった」と一つの転換が語られています。「奴隷」という言葉をもって、自由のなさとか拘束とか、制約を持った人間性を表していると思うんです。「その有様は人間と異ならず」、自分をへりくだらせて、そのへりくだりは死に至るまでの従順であった。つまり地上のイエスの辿った道を非常にコンパクトに述べていると思うんです。そして「それゆえ」という切り返しのもとに「神は」と主語が変わり、「このキリストを高く引き上げた。」そして「すべての名にまさる名を賜った」。この「名」というのは、そのものの本質という意味合いを持っています。具体的にどういう名かというと、「キュリオス(主)」という名です。「すべてのものが〈ひざをかがめ〉、『イエス・キリストは主である』と〈告白する〉」。これは典型的な神への礼拝行為です。そうしますとこの賛歌は、神の領域にあった方が、人間の運命を辿り、そこで神への忠実と従順を示した。そして神がこの方に、礼拝に価するものとしての「キュリオス」というタイトルを与えたという三つの状態が描かれていると思うんです。 | |
■パウロのキリスト論 | |
「キリストはだれであるか」という問いから見ると、パウロの場合「御子」という言葉が一番目立ちます。この「御子」という言葉は「神の子」と同じ意味です。ただ、(原語のギリシャ語で)「彼(神)自身の子」と言っている言葉を日本語では「御子」と訳していて、パウロは「神の子」という言葉よりも、何か大切なところでは「御子」という表現をよく使うんです。典型的なのはガラテヤ1章16節で、「御子をわたしの内に啓示して下さったその時に、わたしは大きな転換を遂げた」ということを言ってるんですね。ローマ書の書き出しでも「この福音は御子に関するものである」というふうに言っています。 そこから続いてくるのは、その御子の〈派遣〉ということです。たとえばガラテヤ4章4節にこう述べられています。「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」つまりある時点において神がご自分の子を派遣した。それは私たちを「あがない出すため、子である身分を授けるため」(5節)。そして私たちに「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さった」(6節)。このように一つの救済史的な流れがまとめられています。そのキーワードは「御子が遣わされる」です。 ローマ8章32節では、こうしたパウロの神の子についての思いが、神の救いの意志と結びつけて考察されています。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」神ご自身が最も大切にしておられる御子を与えてくださったとすれば、私たちは何を恐れることがあろうかという展開なんです。神がいかに〈御子の派遣〉ということを通して、私たちの救いを望んでおられるかということが述べられているわけです。 もう一つ注目すべきは、パウロがしばしば用いる「主」という言葉です。パウロにとってイエス・キリストという方を見る目は、復活された方、つまり現時点におけるキリストとの交わりにあるわけです。ですから「わたしの主」とか「わたしたちの主」という表現になるんです。「わたしたちの主」という表現をするときには、教会の共同体の主である方という意味になるわけですね。その意味が強く現れるのは聖餐に関する言葉の中だと思うんです。第一コリント11章20節で聖餐のことを「主の晩餐」と言っています。「主が一世一代残された晩餐」ということが、「主」という言葉で強調されているんです。 さらに、私たち人間と連帯するキリスト理解というのがあると思うんです。それが一番よく現れているのが「最後のアダム」(一コリント15章45節他)という考え方です。この「最後のアダム」という言葉は、人間が行き着くところがキリストにおいて完成したというような、パウロのキリスト理解の一つのポイントなんですね。つまり我々は人間として、キリストのような人間の姿にあやかればいいということで、キリストが人間の救われた姿の理想として提示されているということになります。 これらはパウロ以前に確立していたキリスト理解に、彼の信仰の体験が被されていて、旧約的な考え方の延長にあるのです。ただし旧約の枠の中では見られないことは、父である神に対する礼拝とくっついた形で、キリスト自身も礼拝の対象とされているということです。旧約聖書の中で、知恵や天の使いが特別な存在と見なされますけど、そうしたものは神の意志の仲介者であって、決して礼拝されてはいないんです。 | |
■福音書のキリスト論 | |
ヨハネ福音書は、上(神)から降ってきて、この地上で救いの業を行い、そしてもう一度父なる神のもとに戻っていくという、〈下降上昇〉の大枠の中で語られているんです。こういう大枠のもとに最初のプロローグを見てみたいと思います。「そしてロゴス(言)は肉体となり、わたしたちのうちに住まわれた。」(1章14節)「そして」という言葉があるのは、それ以前の段階がはっきりと前提とされているからです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)このような先在された方が人となったというわけです。それでは「彼は何者か」というと、ヨハネの場合は「子」と言えると思うんですね。「子」というのは「父」があっての子ですから、彼が提示するキリスト論は、神とキリストという存在を父子関係の中で提示していくという色彩が強いわけです。父が彼を派遣する。彼は父の御旨を行う。父と一体となっている。だから「父がわたしにおり、わたしが父におる」(10章38節)という表現になります。こうして地上でこの父を人々に啓示する。最終的には「わたしを見た者は、父を見たのである」(14章9節)と、子の存在そのものが父の啓示であるというようになるわけです。
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■黙示録のキリスト論 | |
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■復活経験をとおして | |
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2006年8月4日放送
●第17回「新約聖書のキリスト論」●