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 新約聖書に見られる様々なキリスト理解について見てみたいと思います。これをとおして考えてみたいことは、初期の教会においてイエスという方が一貫して神の子と見なされていたということ。そして神の子と見なされるということは、父である神様と並んで常にイエス・キリストは礼拝の対象とされていたということなんですね。そうしたことが一貫して新約聖書に流れています。
 

■最古のキリスト論


 最も古いキリスト論の形として典型的なものはフィリピ2章6〜11節などです。この賛歌は信仰の中心的な内容を定式化したもので、礼拝などにおいて唱えられたのではないかと思われます。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしくして奴隷の姿をとられた。人間の姿をとり、その有様は人間と異ならず、おのれをむなしくして、死に至るまで、従順であられた。それゆえ、神は彼を高く上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。イエスの名によって、すべてのものがひざをかがめるため、また、すべての舌が、告白するために。『イエス・キリストは主である』と。」

まず、「キリストは神のかたちであった」。それに続いて「神と等しくあること」という言い方をしています。次に、「神と等しくあったもの」が、「自分をむなしくして奴隷のかたちをとった」と一つの転換が語られています。「奴隷」という言葉をもって、自由のなさとか拘束とか、制約を持った人間性を表していると思うんです。「その有様は人間と異ならず」、自分をへりくだらせて、そのへりくだりは死に至るまでの従順であった。つまり地上のイエスの辿った道を非常にコンパクトに述べていると思うんです。そして「それゆえ」という切り返しのもとに「神は」と主語が変わり、「このキリストを高く引き上げた。」そして「すべての名にまさる名を賜った」。この「名」というのは、そのものの本質という意味合いを持っています。具体的にどういう名かというと、「キュリオス(主)」という名です。「すべてのものが〈ひざをかがめ〉、『イエス・キリストは主である』と〈告白する〉」。これは典型的な神への礼拝行為です。そうしますとこの賛歌は、神の領域にあった方が、人間の運命を辿り、そこで神への忠実と従順を示した。そして神がこの方に、礼拝に価するものとしての「キュリオス」というタイトルを与えたという三つの状態が描かれていると思うんです。
 

■パウロのキリスト論


 パウロは
「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」(一コリント2章2節)と言っています。この場合「十字架につけられたキリスト」とは、「かつて十字架につけられ、復活して、今、現存しておられる主」ということです。今、私たちに救いを仲介してくださっている復活者キリストが、抽象的な頭の中で描くだけの存在ではなくて、「あの時、生々しく十字架に釘付けにされたあの方である」という意味で十字架を強調するわけです。ですから〈死と復活のキリスト〉ということがパウロのキリスト論の中心になっていて、いつもそれにあやかる者がキリスト者であるという考え方になっています。たとえばローマ六章に洗礼のことが書かれていますが、洗礼を受けるということはキリストの死に与ることで、やがて復活の力にも与るという、キリストとの同一化を求めているわけですね。

「キリストはだれであるか」という問いから見ると、パウロの場合「御子」という言葉が一番目立ちます。この「御子」という言葉は「神の子」と同じ意味です。ただ、(原語のギリシャ語で)「彼(神)自身の子」と言っている言葉を日本語では「御子」と訳していて、パウロは「神の子」という言葉よりも、何か大切なところでは「御子」という表現をよく使うんです。典型的なのはガラテヤ1章16節で、「御子をわたしの内に啓示して下さったその時に、わたしは大きな転換を遂げた」ということを言ってるんですね。ローマ書の書き出しでも「この福音は御子に関するものである」というふうに言っています。

そこから続いてくるのは、その御子の〈派遣〉ということです。たとえばガラテヤ4章4節にこう述べられています。「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」つまりある時点において神がご自分の子を派遣した。それは私たちを「あがない出すため、子である身分を授けるため」(5節)。そして私たちに「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を送って下さった」(6節)。このように一つの救済史的な流れがまとめられています。そのキーワードは「御子が遣わされる」です。

ローマ8章32節では、こうしたパウロの神の子についての思いが、神の救いの意志と結びつけて考察されています。「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」神ご自身が最も大切にしておられる御子を与えてくださったとすれば、私たちは何を恐れることがあろうかという展開なんです。神がいかに〈御子の派遣〉ということを通して、私たちの救いを望んでおられるかということが述べられているわけです。

もう一つ注目すべきは、パウロがしばしば用いる「主」という言葉です。パウロにとってイエス・キリストという方を見る目は、復活された方、つまり現時点におけるキリストとの交わりにあるわけです。ですから「わたしの主」とか「わたしたちの主」という表現になるんです。「わたしたちの主」という表現をするときには、教会の共同体の主である方という意味になるわけですね。その意味が強く現れるのは聖餐に関する言葉の中だと思うんです。第一コリント11章20節で聖餐のことを「主の晩餐」と言っています。「主が一世一代残された晩餐」ということが、「主」という言葉で強調されているんです。

さらに、私たち人間と連帯するキリスト理解というのがあると思うんです。それが一番よく現れているのが「最後のアダム」(一コリント15章45節他)という考え方です。この「最後のアダム」という言葉は、人間が行き着くところがキリストにおいて完成したというような、パウロのキリスト理解の一つのポイントなんですね。つまり我々は人間として、キリストのような人間の姿にあやかればいいということで、キリストが人間の救われた姿の理想として提示されているということになります。

これらはパウロ以前に確立していたキリスト理解に、彼の信仰の体験が被されていて、旧約的な考え方の延長にあるのです。ただし旧約の枠の中では見られないことは、父である神に対する礼拝とくっついた形で、キリスト自身も礼拝の対象とされているということです。旧約聖書の中で、知恵や天の使いが特別な存在と見なされますけど、そうしたものは神の意志の仲介者であって、決して礼拝されてはいないんです。
 

■福音書のキリスト論


 福音書記者は非常にはっきりとした執筆意図を持っていました。それまでにあった、イエスの語られたこと、なされたことの細切れの伝承ではなくて、一つの物語として提供するということです。こういうことから共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が何を述べようとしているのかを考えますと、神の子であり主であるキリストは、ナザレのイエスと同一の方であるということです。たとえばマルコ福音書の書き出しは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1章1節)。そして福音書の終わりで彼が息絶えたときに百卒長が「まことに、この人は神の子であった」(15章39節)と。つまり彼の生の流れ全体を「神の子」で包み込むようにしているわけですね。また、「人の子」という言葉で人間的な側面が描かれています。つまり「神の子」にして「人の子」という、この二つをマルコは描こうとしているということになります。マタイもルカも根本的な意向は同じだと思うんです。主キリストは、ナザレのイエスと同じであるということです。人間の運命を辿っている。しかし神の子であるということが強調されているわけです。ある時点でそういうふうになっていったというのではなくて、初めから神の子であり人の子であるという二つの局面が並べて告白されていることを留意しておくべきだと思うんです。

ヨハネ福音書は、上(神)から降ってきて、この地上で救いの業を行い、そしてもう一度父なる神のもとに戻っていくという、〈下降上昇〉の大枠の中で語られているんです。こういう大枠のもとに最初のプロローグを見てみたいと思います。「そしてロゴス(言)は肉体となり、わたしたちのうちに住まわれた。」(1章14節)「そして」という言葉があるのは、それ以前の段階がはっきりと前提とされているからです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1節)このような先在された方が人となったというわけです。それでは「彼は何者か」というと、ヨハネの場合は「子」と言えると思うんですね。「子」というのは「父」があっての子ですから、彼が提示するキリスト論は、神とキリストという存在を父子関係の中で提示していくという色彩が強いわけです。父が彼を派遣する。彼は父の御旨を行う。父と一体となっている。だから「父がわたしにおり、わたしが父におる」(10章38節)という表現になります。こうして地上でこの父を人々に啓示する。最終的には「わたしを見た者は、父を見たのである」(14章9節)と、子の存在そのものが父の啓示であるというようになるわけです。

 

■黙示録のキリスト論


 黙示録の特徴は「小羊キリスト論」というキリストの提示だと思うんです。これは現時点において、神のもとにいて、神と共にあらゆるものから礼拝されているキリストの姿です。「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。」(5章1節)「御座」とありますが、そこには神ご自身がおられます。そして「さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、『ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい』」。(11、12節)これは天上における礼拝ですね。神だけが力、富、知恵、勢い、ほまれ、栄光、賛美を受けられる方なのです。ところが「小羊こそ」と言われているんです。しかも神様はちゃんと御座にいるんです。このようにキリストという存在が、神のごとく、礼拝の対象となっているわけです。
 

■復活経験をとおして


 イエス・キリストという方の天的な存在様式と、地上のナザレのイエスとを合わせて、「イエスは神の子キリストである」というキリスト教信仰は始まったのであり、その原点は復活経験にあるんです。あくまで復活経験をとおしてこの信仰が生まれてきたのであって、生前のイエスに対してはこのような信仰というものはなかったのです。この点をはっきりと申し上げておきたいのはなぜかと言いますと、今日の聖書学では非常に史的イエスを捕らえようとすることに限られる傾向があるわけです。最近話題になっている「ユダの福音書」とか「ダ・ヴィンチ・コード」の中にもそういう傾向が見られますけれど、そこで扱われているのはあくまで死ぬまでのイエスに関する諸説なんです。ところがキリスト教の中で大切にされているイエス・キリストという方は、史的イエスの枠組みの中でだけとらえると、たとえどういう解釈であろうとも、それは大きな欠陥を持っているんです。それだけでは、信仰している者にとってのイエスの存在意義は成立しないんです。ですからキリスト教信仰にとって、史的イエスは重要な出発点ではありますが、史的イエスにキリスト教信仰を還元することはできないのです。イエスに関する実証できる限りの史実をテキストから確認するという方法ではできないわけです。それ以降、イエスについて行こうとしている人たちの中に起こっていることの史実を見る限り、イエスをキリストとする信仰は、史的イエスの問題だけを扱っていても十分に扱いきることはできないと言わざるを得ないと思うんですね。

 

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2006年8月4日放送
第17回「新約聖書のキリスト論」