キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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2007年8月6日放送

加藤光行氏
日本福音キリスト教会連合 高松シオン教会牧師

私の両親は大変熱心なクリスチャンで、私は三代目のクリスチャンです。両親は、こと信仰のことになると、他に類を見ることのできないほど厳しい人でした。

中学生になると、私はバドミントン部に所属し、一生懸命に練習に励むうちに、大会に出るチャンスが巡ってきました。しかしそれは日曜日に行われるもので、それを両親に許可してもらえず、エントリーを断念せざるを得ませんでした。

高校時代になると、他の学生たちと同じように何でも自由に行動できないことに我慢ができず、しかし両親はその信仰において決して妥協しないことを知っていた故に、結局、両親の目を盗んで悪いことをするようになったのです。たとえば、夜、家族が寝静まった後に、二階の窓からこっそりと抜け出して、酒を飲むなどの夜遊びをしました。そして朝早く静かに窓から部屋に戻って、下にいる両親に「おはよう」と何事もなかったように挨拶するのです。あからさまに両親に反抗することよりもずっと悪い。好きなことを思うようにやっているように見えても、心の中は本当に渇いていました。

そして私は、本当に分かち合える友にも渇いていました。私は多くの友人がいるほうでした。しかし、表面上は友人と楽しくやることができても、深いところで人に対して心を閉ざしていました。一方で、家では自分の本当にしたいと思っていることを話したとしても、両親にはどうせわかってもらえない。そう心の奥底で思うようになっていました。

ある日曜日、教会の牧師が、高校生会の礼拝を終えて帰ろうとしている私にこう言いました。「最近おとなの礼拝に、光行君と同じ高校二年生の男の子が来ているよ。よかったらおとなの礼拝にも出てみない?」私は心から驚きました。私はそれまで、自分と同じような若い人で、自ら好き好んで教会に来るような者はいるわけがない。そう決めつけていたからです。さらに不思議なことに、その牧師の言葉を聞いた瞬間、心の中でせき止まっていた何かが崩れ、一気にすべてのものが流れ出すのがわかりました。心の鍵が突然外れ、私の人生がこの瞬間を境に何かが変わるとさえ思いました。

私はそれから自分の犯している大きな罪にも目を向け始めました。私はそれまで、自由に何でもやって、自分が満足できればそれでいい、そして、キリスト教のことはもっとおとなになってから真剣に考えればいいのだ。そう考えていました。そのために、罪だと自覚していながら、両親を、自分自身を、そして何よりも神様を欺いていたのです。まるで律法学者たちが、神様のことをよく知り、律法を知っていながら、キリストを十字架にかけ、嘲笑っていたように。私はまさにその人、死に値する罪人のかしらでした。私自身がイエス様を十字架にかけて死なせた張本人であることが初めてわかりました。そうして私は、イエス様の十字架の赦しと救いの愛を知り、心から受け入れることができたのです。私はその高校生に、まだ実際に会ってもいないのに、彼の出現によって突然、心が開かれたのです。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(一ヨハネ1章9節)「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(ヘブル13章5節)この御言葉によって、私の罪はキリストの十字架によって完全に赦されきっていることを知り、私が神に背き続けていても、神は決して私を離さない、その愛と救いの確かさを経験しました。それまでイエス様と十字架の救いは、私にとって頭だけの理解にしかすぎませんでした。しかしイエス様はそんな私のところにも、友なき者の友となるために、十字架の死と救いを示すために、その学生を通して、わざわざ来てくださったのです。その学生との出会いは、私にとってあたかも、イエス様と直接親しく出会ったかのようでした。

後日、私はその学生と礼拝において実際に出会い、それから間もなく、バプテスマを彼と共に受けるに至りました。

私の献身への情熱は、純粋な志と不純な思いの、両方向において育っていったことを覚えています。神様のためにすべてをかけて働きたいと願う一方、そのことを自己実現の手段として考え、教会形成の働きはやりがいがあるとか、人を導きリーダーシップをとる働きがしたい、そのように心のどこかで思っていました。

大学も卒業間近になって進路を決めるというときに、すぐに神学校へと考えてもいましたが、自分の思いの未熟さ、危うさに気づかされ、その思いを神様の前に確かめる必要を覚え、文具メーカーの営業職に就くことに決め、上京しました。私は一つの祈りをしたためつつ、新しい地へ向かいました。それは、「神様、どうか私がはっきりとわかるように、献身の思いを試してください」という祈りです。それはすぐに聞かれ、私は東京の教会に集うようになって、熱心で有能に見えるクリスチャンたちに囲まれ、自分は何者でもないのだと思い知らされます。そういう人たちが直接献身ではなく信徒として教会に仕えているのに、なぜ私などがそれを考えているのか。そんな考えさえ起こってきました。しかしそのような中でも献身の導きの火が完全に消えてしまわなかったのは、一つの御言葉が私の献身の召しを支え続けていてくれたからです。それは第一ペテロ2章21節「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」気づいてみると、この言葉が私の召しを倒れないようにいつも力強く支えてくれていたのです。私が神様に従うその召しは、自己実現のためでも、自分が優れているからでもなく、イエス様がそう歩まれたように、ただ自分を空しくし、神様の救いの計画と栄光のためにもっぱら苦しみを忍ばれ、十字架というさらなる深みへと進まれた、その足跡に従うことなのだと教えられました。そうするときに、苦しみや、自分の弱さ、過ちにさえ、神様の恵みと意味とを見いだせるようになったのです。

 

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