2007年11月12日放送 | ||
西本耕一氏 |
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神学生のときに、神学校教授の小島伊助先生のお宅に行く機会が与えられました。先生は当時、米寿を迎えられていました。話をするうちに、聖霊に心が満たされることの素晴らしさをお聴きすることができ、私もまた霊の恵みに与りたい、と切に願いました。 ある日、いつものように小島先生と話していたとき、ふと先生は聖書の一節を「読んでくれ」と言いました。それはヨハネ福音書五章十九節です。「子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである。」先生は「子は自分からはまったく何もできない。もし勝手に事を成すなら、それは私生児だ。」そう私に語られました。自分の心が見透かされたような気がしました。私はそれまで、自分はキリストによって救われ、十字架によって罪赦された神の子であると信じていました。しかしこの御言葉を突きつけられたとき、本当に父なる神に従順に従ってきたのか、心のうちを深く探られました。そして最後に小島先生は「西本さん、本物になれよ」と言われたのです。 それ以来、祈祷室通いが始まりました。「神様、私は本当にあなたの子なのですか。」苦悩に心は悶絶しました。そして私の本性が見えてきたのです。私は、神に喜ばれ人にも尊敬される者になりたい、そう思っていました。しかしその裏には、自らの傲慢な心があったのです。自分自身、謙遜で神に忠実な者と思っていたのですが、そうではなかったことが示されてきました。しかも自分の人に対する愛情さえも、実は自分の欲深い思いであることが暴露されてきました。まさに水辺に打ち上げられた土左衛門のように腐り果てた醜い自分の真相を知ったのです。そんな醜い自分をどうやって解決することができるのか。神との格闘の日々が続きました。 その中でガラテヤ五章二四節が示されました。「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」そうか、自分のこの自我も、自分の愛情と欲と共に十字架につけてしまうことか、と心に光が与えられました。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(二章十九、二十節)この聖書の言葉と共にキリストの十字架の姿が私に迫りました。私の醜い自我の姿も十字架につけられた。私はキリストと共に死んだ。キリストはこんな醜い私と共に死んでくださった。そしてその中に、復活のキリストを拝させていただきました。飛び上がらんばかりの喜びでした。 昨年、妻がパニック障害に陥り、大変な時がありました。すべての奉仕は縮小し、特伝奉仕の依頼もお断りしました。「奉仕優先、伝道が先だ!」とそれまでは思っていたのです。しかし、病気の妻と共にいる、そこに、十字架にかかり、苦しまれ、死んでくださったキリスト、そして死の中からよみがえられ、「子よ、心安かれ」と語ってくださる救い主が共におられることを実感しました。幸いに妻も回復しつつあります。もし信仰がなければ、生活はめちゃくちゃになっていたのではないかと思います。今あるはただ神の恵みです。 | ||
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