2008年1月12日放送 |
● 根来詩子氏 ● |
|
(助産師として)就職して、一番ぶつかったのは、中絶の問題でした。関わりたくないというか、関わることに罪悪感を感じていました。生みたくても亡くなってしまった方には愛をもって温かく接することができても、中絶をされた方に対して同じような温かさで接することができなかったり。その人たちを裁いていましたね。 最初は、そういうところに関わらないのが良いことだと思っていたんですね。ただ現実は、やはり病院の中で自分がその人に接しないということはできるわけもなく、ただ接しないことだけが良いのか?って思わされて。 そんなときに、若い、中絶を決断された方に、私が関わることになったんです。いつもイヤだなという気持ちだったんですけれども、その方に会う前に祈ることができたんですね。「愛をもって、思いやりをもって寄り添える心を与えてください」と。その方とだいぶ長い時間お話しをすることができて、その中で、その方が本当に悩んで決断したことであり、そして、中絶をしたから自分の体としては元の状態に戻っているけれども、この命をなくしてしまったことを罪だと思っている、そして、この罪をこれからもずっと持っていかなくてはならないことがすごく怖いって話してくださって。私はその方たちのその後を考えたことがなかったんですけれども、私たちには理解できない、自分でも迷ってしまうような中に患者さんたちがいて、それを決断して、そしてそのことをまたその後も持ち続けていかなくてはならないんだなっていうのを感じたんですね。「良い」「悪い」だけで考えていた自分が、なんてその人の立場に立っていない考え方だったんだろうって感じさせられました。そして本当にその人のために祈ることができて、退院のときには「今度はちゃんと命のことを考えて、十年後に、ちゃんと結婚して、赤ちゃんをここの病院で産みに来ますね」って言ってくださって。 神様は、「クリスチャンの助産師だからそういう人に関わらない、それであなたは良いことをしているんだ」と言っているのではなく、中絶自体は神様も悲しまれることだと思うんですけれども、本当にその人に寄り添い続けることを神様は望まれていたんだなって本当に感じて。 社会に出て、いろんな人と関わっていかなければならないことの難しさも感じました。好きだから関わるという学生時代とは全然違ってきて。自分の隣人を愛していくことの難しさというか、自分が目に見えない罪をすごく持っているなっていうのを感じたんですね。愛せない気持ちであったり、嫉妬であったり。聖書の中に書かれていても、自分で見つめなければそれでも済んでしまうようなことですけれども、そういったことを社会に出て見つめたときに、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ書43章4節)という御言葉がとても好きだったんですけれども、こんな汚い自分を、自分自身が「高価で尊い」と思えなくなってしまったんですね。働く前は、「良い御言葉だなぁ」っていうくらいに思っていたんですけれども、こんなに汚い自分を「高価で尊い」と言っていること自体が、本当なのかな?って思って。そういった中でもう一度、原点である、神様が私の罪のために死んでくださった、その罪は、嘘をついたりとか目に見える罪だけではなく、自分の心の奥底にある、そしてまだ気づいていない罪でさえも赦してくださるということを与えられたんですね。イエス様は私たちの深い罪のために、それを背負って死んでくださって、そしてそれでも「わたしはあなたと共にいる」という言葉をくださっているというふうに感じたときに、「価値観が違うからこの人とは…」とか「この人は嫌いだから…」とかではなく、神様にその部分もゆだねて祈っていきたいなと思わされたんです。そして「わたしはあなたと共にいる」と言ってくださっている神様に、私の将来をささげたいなというふうに思わされています。 |