2007年4月23日放送 | |
「御心のままに」 | |
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主の祈りは福音書の中で主イエスが私たちに教えてくださった祈りで、私たちにとって一番、祈りの根本、祈りの中心だと思います。ある聖書学者たちは、主の祈りはイエス自身の体験から来ているんじゃないかと考えるんです。 どういう体験かというと、イエスが十字架にかかる前にゲッセマネの園で苦しみの祈りを捧げた。そのゲッセマネの祈りがこの主の祈りの根本になっているんではないかということです。つまり、主の祈りをイエス様自身が唱えられた。しかも苦しみの中から唱えられたんではないかということなんですね。それならば、私たちが主の祈りを唱えるというのは、イエスの苦しみと心を合わせているというふうに考えられます。 イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ福音書26章36〜39節) この「杯」というのは苦しみの象徴です。この後イエスは自分の命を捧げて、十字架という苦しみを受けなければならない。その直前の祈り。それが来る前の恐怖に震えておられた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」そのような気持ちから出ているんですね。この時のイエス様がどれほど苦しんでおられたか。イエス様はこの十字架ということが、人間的にはもう嫌で嫌でたまらなかったわけです。でも、自分の願いではなくて、御心のままに、つまり、神様がなさりたいように自分を献げますという、そういう気持ちで祈っておられたんですね。その神様にすがるイエス様の心に私たちが合わさるから、私たちが唱える主の祈りの本当の意味があるような気がします。 〈主の祈り〉天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。(日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳) ここに「み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」とあるんですけど、ゲッセマネの園のイエスの祈り「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」というのと、願っていることはまったく同じだと思うんです。だから、私たちが苦しみの中からあえぎ叫ぶような祈りが主の祈りなんですね。 苦しみの中で打ちひしがれて、イエス様のようにもだえ苦しんで、「主よ、この杯を取り除いてください。」そういう切なる叫びを叫びながら、その中で、でも「主よ、御心のままに」という、その気持ちに合わさった祈りが、主の祈り。だから主の祈りを一番唱えるのにふさわしいのは、私たちが最も苦しんでいる時、最も絶望している時、最も辛くて、血の汗を流すような時です。だから、もし今、苦しみの中におられるなら、主の祈りを唱えてみましょう。 「み名が聖とされますように。」これはいったいどういうことかというと、その当時の人々は、戦争にも負けて、やられ続けてボロボロになってしまって、敵が言うんですね、「お前たちの神様は全然力がないじゃないか。」つまりそれはみ名が崇められていないということですね。神様の力がまったく発揮されていなくて、自分たちはボロボロ、ヘトヘトで、力が出ない。そんな中だったからこそ、神様の名前が本当に力どおりに私たちに働くように、それが切なる願いだったんですね。 「み国が来ますように。」これも同じです。暴力、戦争、病、罪、不正義がはびこって、神の国なんかまったくない状況があったので、人々は、神の国が来てくださいということを心の底から願ったわけです。どの文言をとっても、悲惨な苦しみの中にある民衆の気持ちが裏に隠れています。そして、積み重なった人々の苦しみと、イエスの苦しみが合わさった中で、イエスが心の底から「御心のままに」と叫んだ、その叫びの中でこの祈りがあるということです。 地には暴力と苦しみがあふれていました。ですから、地にはいつくばっている私たちが顔を上げて天に向けて、大声で叫ぶんですね。「天におられる私たちの父よ」。人間は地にひれ伏して、ペシャンコのような、ありんこのような、実際そういう存在なんだけど、その中で願っている。「天におられる私たちの父よ、私たちを助けてください。」そういう切なる叫びですね。私たちもこの叫び声に心を合わせて祈りたいと思います。 そして大事なのは、「み名が」「み国が」「みこころが」と、全部、神様側が主語になっていることです。「私が」とか「私たちが」と言っていない。それは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」、この主の祈りを唱える中で、苦しみの中から叫ぶということが大事なことですが、もう一つ大事なのは、私の望みや私の執着、私の苦しみを、横に置けるかどうかということです。 私たちは結局は自分の世界にとらわれている。〈自分〉があるのです。「自分が自分が… 」ということを言っている中では、「御心のままに」ということが出てこない。自分の望みがすべて叶えられる、それはイエスがしたお祈りではないのですね。イエスは自分の願いを置いて、「御心のままに」と祈った。この転換です。自分の願いから神様の願いに、神様の御心にゆだねる、自分を明け渡す祈りですね。その明け渡し、そのひっくり返りがあるときに、この主の祈りの本当の恵みと力が私たちに働いてくると思います。 結局私たちの苦しみの根源は何でしょうか。自分の思い通りにしたいという、自分の枠があるんですよね。その自分の枠にきれいに飾りを入れて、それで私たちは満足したいんですね。自分の願いどおりにするということをみんながするから、その枠と枠とがぶつかって苦しまざるを得ないというのが現実のような気がするんです。 〈私の望み〉とか〈私の願い〉というふうに執着している、その枠そのものを横に置くことができたら、何かが動いてくるんではないでしょうか。イエスのように「御心のままに」と言えるならば。そのように私の心を変えていけるかどうか。というより、変えていただくということであろうと思いますが。でもそれは簡単ではない。 そのために大事なことはもう一点。「わたしたちの父よ」と祈っているんですね。「父よ」というのは、原文では子どもがお父さんに頼むような感じ、日本語で言ったら「パパ」、「お父ちゃん」、そういう感じです。子どもが苦しんでて、「パパ、助けて!」って言う、そういう気持ちなんですね。だから、そうすべきであるとかじゃなくて、イエス様は、神様は自分のお父さんだっていう気持ちが強かったので、お父さんに願っている。そのお父さんにすべてをゆだねるからこそ、そのお父さんがすべてをしてくださるんですね。 子どもであればあるほど、自分は無力だから、何でもかんでも、しかも信頼しながら、お父さんやお母さんにおねだりすると思うんです。そういう気持ちの中で、自分の恨み辛みを言いながら、でも、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」お父さんにすべてをゆだねる。そのように主の祈りを唱えてみてはいかがでしょうか。
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