キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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 2007年10月22日放送

「成人式」

両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。(ルカ福音書2章41〜51節)

イエスが学者たちとしていたこのやり取りは、ユダヤ教の習慣のバールミツバという、いわゆる成人式がもとになっていると言われています。成人だということは、ユダヤ教の中では律法を理解しているということなんですね。だからラビが律法についての質問をいろいろして、それに答えられれば成人男子と認められるわけです。

イエスの場合は、おおよそ12歳の少年では考えられないくらい深い律法理解だったので、ラビたちが驚いて、それから延々と話をしていたわけですね。そこに父親と母親がやって来て「お父さんもわたしも心配して捜していたのです」と。「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」

イエスが、自分が一体誰であるのかを悟った瞬間という感じがするんですね。神殿を「自分の父の家」と呼んでいるわけです。この「父」というのは神様です。彼は父なる神との関係の中で自分という者をはっきり悟った。そういうふうにアイデンティティを確認したという意味で、やっぱりこれは成人式であると言えると思うんです。

イエスは誕生のとき、聖書によると、聖霊によって身ごもった。ヨセフは本当のお父さんではないわけです。イエスは、ヨセフが自分のお父さんでないということをいつ知ったのか。それを知ったときのイエスの気持ちはどうだったのか。イエスの心の中の動揺、誰が自分のお父さんなのかという問いは、かなり深刻なテーマであったと思うんです。そのようにこの箇所を読むと、彼が神殿で「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言った言葉は、別の響きが入ってきます。12歳のとき、神殿の中で、自分のお父さんは神様だということを、深い意味で彼は悟ることができた。これが彼のアイデンティティの根本的なものだということになるんですね。

それを私たちに問い返してみるなら、こう言えると思うんです。すべての人が父親と母親から、良いものも悪いものも受け継いでいる。しかも様々なトラブルを背負って生きている現実が私たちにはあります。それをどのように受けとめて、そして自分のアイデンティティ、つまり自分が自分であるというポイントを、どのように確立するのかという問いがあるんですね。

自分の父親、母親から、精神的に独立することによって、初めて私たちはおとなとしての自分の本当のアイデンティティを持つことができます。それを持てないと、親の圧迫から逃れられない、まだ自分になりきれていないということなんです。だから私たちはイエスと同じように、両親を超えるものの中で自分自身を発展させていく。私たちにとってのバールミツバ、つまり霊的な成人式が必要なんですね。それは神様と自分との関係の中で、その答えを見つけることなんです。

どのように愛されたか、どのように傷を負ったか、それは一人ひとり違うでしょうが、父親と母親を超える、もっと大きな愛の存在、そのもっと根本的なものは、神から来るんですね。なぜかといえば、私たちは神様に造られた存在だから。私たちは根本的には、神から生まれ、神に育てられた。そして私たちは神が本当の親であって、神の子供である。それが私たちの根本的なアイデンティティです。それをイエスが悟ったわけです。だからこそ私たちもそのようなアイデンティティを持つことができるのですね。私たちは過去の境遇に嘆く必要性はないということです。神においてこそ、私たちは本当の自分を見つけることができる。そして神においてこそ、私たちは本当のおとなとして、一個の人間として生きることができるのですね。

「この後にイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。」ヨセフ、マリアの子供として生きることに何の問題もなかったわけですね。彼は自分は何者であるかということがわかったからこそ、自由なおとなとして、両親を尊敬して暮らすことができた。そのように私たちも、神様から生まれ、神によって生きているという、その根本的なことがあるからこそ、神様を黙想して、そこに自分の基盤をおいて、家族に仕えて、愛し合っていける。そこに私たちの本当の命と喜びが溢れてくる。このイエスのバールミツバに倣って私たちも歩んでいけるように祈りたいと思います。

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