2007年11月5日放送 |
「三つの誘惑」 |
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さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ福音書4章1〜11節) この前のところでイエスは洗礼を受けられて、神の無償の愛を感じられたのです。普通に考えるなら、その神様の愛をすぐ人々に伝えようとすると思うんですけれども、なぜかそれをすぐしないで、荒れ野に行かれて誘惑を受けられたという場面が出てくるわけです。これは非常に不思議な気がします。「“霊”に導かれて」ということなので、これは必然的に通らなくちゃならないものとして描かれているわけですね。 なぜイエスは誘惑を受けられたのでしょうか。イエスは御父から神の愛を深く感じた。それで伝道活動をする前に、じゃあその神の愛に反するものは一体何なのかを悟っておかなければならなかった。その反するものをしっかり見極めた上で活動を始めなければならないというような感じですね。 私たちも、神の愛が何であるのかということを深く黙想しながら身につける必要性があると思うんですけれども、それと共に、何が神の愛から離すものなのか、私たちの罪の根っこというふうに言ってもいいかもしれない、それは何なのかを見なければならないと思うんですね。そういうふうにイエスの誘惑を自分のこととして受け取って黙想されたらいいんではないかなと思います。 最初の誘惑は、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と。イエスはお答えになった。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。「パン」、これは「物質」と言ってもいいかもしれません。所有欲が神の愛を阻害しているということですね。私たちの心の中に愛がなければ、愛ではないもので心を埋めるしかないわけです。それは食べ物かもしれない、お金かもしれない、ショッピングかもしれない…。愛がなければ、何かそういうもので自分の心を守らなくちゃならないと思うんですね。イエスは、神の愛を語る言葉で私たちは生きていける、そういう形でこの誘惑を退けられたわけです。 二番目は、悪魔は「神殿の屋根の端から飛び降りてみなさい」と言うわけです。これは人をアッと驚かすようなスーパーマンのようなことをして、メシアとしてどれほど力があるかということを示すことだろうと思うんです。ここでサタンは何をくすぐっているかというと、人からどう見られるかということだと思うんですね。確かにこれも、神様の愛がなければ、人からの評価で自分の心を埋めようとするのは必然的なことかもしれません。人から誉められたり評価を受けることは気持ちいいですからね。そこで、人の目を中心にして生きるのか、神様の愛を中心として生きようとするのかによって、私たちの生き方は大きく変わる可能性があるんですね。 三番目は、悪魔は世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せたというわけです。これはイエス様自身が王様になって、それらすべてを持ったらいいということですね。簡単に言えば立身出世、もっと言ったら、人間の傲慢心そのものです。つまり、自分を王様にしたい、人よりも自分のほうが上だと思いたいような気持ちです。良い信者になることにも競争があって、人よりも自分が優れていると思いたい。そういう傲慢な心、これはなかなか根深いところがあると思います。特に日本人は、見るからに傲慢な人は最初から排除されちゃうわけで、表面は腰が低く謙遜な風をしていて、でも心の中ではどこか自分は偉いと、根拠もなくそう思っている。これがなかなか難しいですね。でもこれもやっぱり同じなんです。神の愛がなければ、人間は自分を誇るしかないんですね。自分は一角の者であるという傲慢な気持ちにならなければやっていけないわけです。しかし神の愛があるならば、傲慢になる必要性がないわけですね。 この三つの誘惑は、神の愛の代わりに、物で心を埋めようとするのか、人からの評価で埋めようとするのか、自分で自分を高めることによって埋めようとするのか、あるいは神の愛だけで生きていけるか、この究極の選択を私たちに迫っていると思うんです。 残念ながら私たちは神の愛だけで生きていくことはなかなかできないので、結局神様以外のもので自分を埋めようとしてしまうことがあるわけですね。 ここで大事なのは、イエスは、この神の愛に反するものすべてを退けて、悪魔の誘惑に勝ったということなんです。だからこそ、これが福音、私たちの救いのメッセージになっているわけです。私たちはちょっとした誘惑でガタガタっと崩れて、ズルズルひきずられてしまうのが現実かもしれない。だからこそイエスがここで誘惑に勝たれた。このイエスにより頼んで、私たちも勝利を得ることができるという希望のメッセージにつながっているんですね。 悪魔というのは、悪魔の顔を出さないで、知らず知らずのうちに誘惑するのが一番の常套手段で、「悪魔がここにいますよ」という感じで人にバレたらダメなんですね。だからこの荒れ野で悪魔は、イエスの前に現れた時点で、実はもう負けているんです。 私たちも、自分の心の中にある悪の力、罪の根っこは何なのかを見ることができるかどうか。見た時点で私たちは半分勝っているんですね。そして、ここに悪魔が働いているっていうところがわかれば、そこにイエスに来てもらったら、もう私たちの勝ちなんです。これがなかなかもちろんできないわけですけど、だからこそ私たちはこの場面をよく黙想したらいいんではないかなと思います。 イエス自身にとってこれはどういう誘惑だったのでしょうか。 イエスはパンを増やす奇跡をしたわけですから、パンを作ることはできたんです。でも人々にパンだけ与えていていいのかどうか。つまり人々に物質的満足だけ与えていて本当に神の愛が伝わるのかどうかということが彼の中にあったと思うんですね。 二番目の誘惑ですけど、イエスは湖の上を歩いたんです。だから人々の前でスーパーマンのような力を発揮することはいくらでもできたんです。でもそれは本当の意味で神の愛を伝えるメッセージにならないと思ったんですね。だから彼は十二人の弟子の前でしか湖の上を歩いていません。 三つ目の誘惑ですけど、イエスが本当に神の国を造るんだったら、有能な弁護士とか政治家とか軍人を弟子にして、自分が王になって神の国を造るのが一番インスタントな方法だったと思います。でもそれでは神の国が伝わらない。だから彼は、十二人の、まったく無能力の、力のない人を選んで、政治的にも経済的にも権力を握らないで、神の国を宣べ伝える道をわざわざ選んだということなんですね。 この話は、イエスが本当に神の国を伝えていくにはどういうやり方がいいのかということを考え抜いたプロセスとも言えます。それでイエスは、人を驚かせるようなこととか、能率、効率ではない形で、神の愛を宣べ伝えた。その戦いであるというふうにも言えると思います。 |