キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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 2007年10月6日放送

「初めにあったもの」
(ヨハネ 1章1〜5節)

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ福音書1章1〜5節)

ヨハネによる福音書は個性的です。他の福音書にはない独自な展開を示しています。読んでいて面白さを感じます。同時にとても難解です。手ごわい福音書です。自分自身の心を低くして神様に祈らないと、門は開かれません。ヨハネが語る福音の声は、聞こえてこないのです。

このような福音書を書いたヨハネ、あるいは福音書を生み出したヨハネの教会と言っても良いでしょう、この教会は、実は信仰の敗北を経験した教会です。自分たちの信仰に敗れた。その中からこの福音書を生み出しています。

ヨハネの福音書が書かれたのは、紀元80年代の後半から90年代にかけてと言われています。この時代に、教会にとって大きな出来事がありました。教会は、母体であったユダヤ教から正式な異端宣告を受けたのです。ユダヤの国は、70年に起こった対ローマ戦争によって滅びています。それから十年余りの年月が過ぎたこのとき、ユダヤ教は自分たちの信仰を立て直そうとしたのです。そこでラビたちが集まって、現在の旧約聖書を正典と定めます。そしてこの会議の席でひとつの問題が浮かび上がったのです。「あのナザレ派の連中をどうするか。」

教会が誕生した最初の頃には、ユダヤ教の側にも教会の側にも、互いに別の宗教を信じているという意識はありません。宗派の違い程度の感覚です。ところが時間の経過と共に、両者の違いがはっきりとしてきました。ユダヤ教に神の御子はいません。十字架につけられた人は、律法に書いてあるとおり神に呪われた者です。片や教会にすれば、イエスが神の御子であること、この方の十字架の死と復活に救いがあることは、一歩も譲れないところです。やがて会議の結果が出ます。「ナザレのイエスを信じる者たちは呪われよ。」教会は、信仰の母体であったユダヤ教から異端宣告を受けました。

当時、ユダヤ人がユダヤ教から異端宣告を受ければ、ユダヤ人としては生きていけなくなります。勘当、絶縁。職業も失うことになります。加えて、ユダヤ教はローマ帝国から公認された宗教です。このユダヤ教から異端宣告を受けると、教会は非公認の宗教団体になり、ローマ帝国から徹底的な取締りを受けることになるのです。これらの現実を前にしたとき、教会は激しく動揺しました。そして多くの人々が福音信仰を捨てたのです。

「異端宣告を受けても、迫害が来ても、イエス様に対する信仰を守って行こう。」牧師は力強く語っていました。次の日曜日教会に来たら、その牧師がいないのです。自ら語っていた福音を捨てて、もといたユダヤ教の会堂へ帰ってしまった。心を許しあっていた友、祈りあっていた家族が、信仰を捨てていく。裏切ることさえする。残った者たちは、大きなむごさを味わいます。

ヨハネは思ったでしょう。「神様はどこにおられるのか。主イエスを信じる私たちを見捨ててしまわれたのか。」神と人とを恨んで死にたくなったでしょう。信じた甲斐がなかったのです。ところが、それだけでは終わらなかった。どうしようもない現実。自分で自分を支えられません。この只中でヨハネは、神の愛を知ったのです。どこをとっても救いようのない現実。だからこそ、神の子は世に降った。私たちの深い罪を背負って十字架についたのだ。「神は愛なり。」このひとつを知らされた。そこでヨハネは語るのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(3章16節)

教会も、己が抱く信仰も潰れていくどん底で知らされたものは、絶望ではなく、神の愛だったのです。それは信じる者たちだけを愛する愛ではありません。このようなボロボロのこの世を愛する、神の愛を知らされたのです。

ヨハネは、キリストに結ばれた天地創造を新しく語っています。「この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」神の愛を知ったとき、ヨハネは世界が変わって見えたのです。裏切りがあり、別れがあり、絶望がある。しかしこの世は、神が愛している世界だ。私たちの主キリストにあって、天地は造られている。この世は、キリストの恵みで満ちている。ここに目が開かれたのです。

「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

なお暗闇の力はあるのです。人間の傲慢、心の冷たさ、神様を無視して己ばかりを通そうとする人の思い。ヨハネは、「この闇は光なるキリストを理解しなかった」と言います。この言葉は、暗闇の世界に対して戦いを挑む言葉なのです。ヨハネは「私は冷たく暗い人の心の闇に、キリストという光を当てる。」このように言う。ヨハネ自身が、キリストという神の光を受けて、新しく生かされた。それゆえに、「暗闇は光を理解しなかった。」この言葉は、この世に対するヨハネの伝道開始の宣言です。ヨハネはこの福音書をもって、暗いこの世に福音の光を指し示していくのです。

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