キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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2007年10月5日放送
第7回「洗礼者ヨハネとイエス」

洗礼者ヨハネとは


 イエスが故郷ナザレを出て神の福音を告げ始めるまでの生活を私生活、そして活動なさった時期を公生活と区別するわけですが、ちょうどその狭間において何かが起こった。いわばイエスの使命、そしてその福音が醸成されたと言いますか、そういう時期がある。それはとりもなおさず洗礼者ヨハネとの関わりということになるかと思うんですね。そこでまずはこの洗礼者ヨハネという人物は何者なんだろうかということを考えてみたいんです。

 マタイ福音書3章に、ヨハネの悔い改めを求める説教のようなものが残されています。

 「人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた。ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜい洗礼を受けようとしてきたのを見て、彼らに言った。」(5〜7節)

 つまり宗教当局で実力のある人たちも洗礼を受けようとして来たときに、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」(7〜9節)と。

 律法を遵守することを旨とする人たちにとって、自分たちが選ばれた民イスラエルであるということが救いの第一条件なわけです。迫ってきている神の怒り、つまり最後の審判の前で、一つのセーフガードというわけです。

 ところが、そういったことは一切、差し迫った神の裁きの前では意味をなさないということをヨハネは言ってるんです。そうしますとこのヨハネという人物が説き始めたことっていうのは、それまでのユダヤ教が持っている枠を完全に壊しちゃってるんです。神の裁き、世の終わりが近いから、その前に悔い改めよと。そのために水で洗礼を授けている。だから悔い改めのない洗礼というのは意味がないと言ってるんですね。

 ただし、さらに続きます。「しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。」(11節)

 つまり自分が今やっていることは前準備に過ぎないと言っているわけです。水の洗礼は、人が悔い改めるということを訴えるだけであって、それ以上の力を持っていないというわけです。それに対して後から来るかたは、「聖霊と火とによっておまえたちに洗礼をお授けになるであろう。」

 聖霊っていうのは神様の命そのものです。終末にはすべての人に神の霊が与えられるというふうに従来言われていた事柄です。そして「火」といったらやっぱり裁きという意味合いが強いでしょう。恵みであり裁きである、そういうものをもたらされるかたが後から来る。それに比べればこの水の洗礼っていうのはそれだけのものだということなんです。このように見ますと、洗礼者ヨハネはこの「後から来るかた」っていうのを宣べているわけです。

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れ、ユダの荒野で教えを宣べて言った。『悔い改めよ、天の国は近づいた』。」(マタイ福音書3章1、2節)

 この「天」というのはマタイでは「神」という言葉の置き換えです。4章17節を見ますと、「この時からイエスは教えを宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天の国は近づいた』。」つまりマタイによれば、ヨハネもイエスも同じ宣教をしたということになります。そしてそのキャッチフレーズは「神の国」ということになります。

 イエス自身がヨハネについて語っている言葉があります。「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。」(11章13節)

 ヨハネが一つの切れ目であるということです。旧約的な事柄はヨハネまで、それからはまったく新しい、アブラハムの子であろうと何であろうと関係ない、別の次元が開けてきているわけです。このような言葉を見ると、ヨハネから何かまったく新しいことが説かれ始めたっていう感じがあります。そして十分にヨハネは既成路線を打ち破るようなものを提示したんだろうと思うんです。

 さらにイエスはヨハネを非常に高く評価しているわけです。「女の産んだ者の中で、洗礼者ヨハネより大いなる人物は起らなかった。」(11節)イエスにとってヨハネは絶対的な意味を持っていたということですね。ただしここに一つの切り返しがあります。「しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」やはり「神の国」っていうものがすべてなわけです。いわば神からの救い、恵みっていうことは、人間のレベルを全部吹き飛ばしてしまうということです。
 

イエスの転換点


 ヨハネの洗礼運動を、イエス自身の立場に立って、イエスの福音が生まれてくる過程として見てみたいと思います。

 イエスにとって私生活と公生活の切れ目っていうのはとてつもない転換点だったんです。

 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネから洗礼をお受けになった。」(マルコ福音書1章9節)

 「出てきた」ということ自体がものすごい転換なわけです。その洗礼において天が裂けた。霊が降った。そして天から声がした。この三つの事柄はすべて終末の時の告知なんですね。それと同時に、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(11節)とは、神ご自身が、終末時におけるメシアとしてイエスを指名したとでもいいますか、そういう意味合いなんです。この福音におけるイエスの洗礼の重大な位置付けが、そういう形で述べられているわけです。

 そうしますとイエス自身にとっても、ヨハネとの関わりというものが、自分の転換点、大きな使命感の芽生え、同時に福音の芽生えということの中で最も重要な出来事であったと言えるんですね。

 「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。」(14節)

 イエスが確固たる使命感を持ち、告げるべきもの、それは福音であります。「福音」という言葉は表題以外はここで初めて出てくるんです。今まで洗礼者ヨハネによって、「福音」というものではなくて、迫ってくる神の裁きということが告げられていたわけです。ここにおいて今までのヨハネのトーンというものが完全に変わっているわけです。

 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)

 ここで「神の国」を開始するというイエスの業が始まった。「神の国は近づいた」というこの宣言は、終わりの時、神の王国が実現する時が来たという宣言でもある。同時にそれは洗礼者ヨハネが強調したような、すべての者が神によって裁かれる時でもあるという、この裁きと救い両面をこの終末の宣言は持っているわけです。
 

イエスの福音における「悔い改め」


 ここで注目されるのは、悔い改めをイエスは福音の本質的要素として説いているということです。洗礼者ヨハネの説いた中心的事柄も悔い改めですね。それはイエスの宣教においても組み込まれているんです。そこで、イエスの福音の中でヨハネから受け継いだものはどんなもんなんだろうかということを、福音書から見てみたいんです。

 まず第一に、終わりの時に入った、裁きが目の前にあるという状況認識がヨハネにあるわけですね。そしてイエスの中でも、終わりが目の前にあるというテンションがあったと思うんです。さらにヨハネの、神の前にまっとうに立てる人間はいない、皆、罪人であるという考え方、これはイエスに共通のものだと思うんです。ですからこそ、このままではすまない、「悔い改めなさい」と。これまたイエスの福音にずっと付いてきます。つまりそういったものはイエスの福音を宣べる下地となっているんですね。

 私は「イエスの人間不信」という言い方をするんですけど、たとえばヨハネ福音書二章でイエスの業を見て多くの者が彼を信じた。

 「しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。」(24、25節)

 人間というものがどれほどエゴイストであるか、ワッと寄って来ても、それがどんな意向で集まってきているのか、それほど信頼できるものではないというようなことなんですね。イエスは、人間っていうものはそう簡単にまっとうな形にならないということを骨身に染みて感じてるんだと思うんです。

 彼の宣教が、いくらやってもやっても、弟子たちも勘違いする。結局はあらゆる人たちの都合やらエゴイズムで十字架につけられてしまうわけです。だから最後の最後まで人間というものはいかに御しがたいものであり、自分中心であるかということは、一つの事実としてイエスはほとんど前提としていたと言ってもいいんじゃないかと思うんです。

 たとえばマタイ福音書11章23節で「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう」と。カペナウムはイエスが好んで教えを説かれた場所だと言われています。しかしカペナウムは地獄に落とされると言ってるんです。これは基本的なイエスの認識なんだろうと思うんです。実際にイエスは裁きについての話をいくつもしておられますね。

 このように見たときに、人間というものが、自分から自分を正しい者とは決して言えない。その上でイエスは神の福音を説いた。つまり神様の赦しを説いた。そしてそのような神様を父として信頼しなさということを宣べた。しかし、告げる相手というのはどこまでも曲がりくねった者、自己中心的な者で、神様の御心と人の心っていうのは天と地ほど隔たっている。そういう認識が最後まであったんだろうと思うんです。

 そういうものがあったからこそ、このような人に対して、本当に救われるのは神様の慈しみだけである、赦しだけであるということなんですね。それは本当に十字架の死にも現れているわけですね。それが福音だと。

 ですから「世の罪」という言葉が聖書によく出てきますけれども、人間っていうものはそこから抜け出せないようなものがあって、このためには慈しみと赦しの福音っていうものが絶対必要なものであるということなのじゃないかと思うんですね。

 ヨハネも悔い改めを説いた。水の洗礼を授けようとした。しかしそれはある意味で人間に心の真空を提供したといいますか、それ以上にプラスに歩んでいく可能性は与えなかった。

 イエスは自分の福音において、それを超えて、無条件の慈しみ、命、恵みを説き始めた。そしてもう一度悔い改めを説いたんですね。そうすると、これはヨハネが説いた悔い改めの要求とは若干レベルが変わってきたんじゃないかと思うんです。つまり福音に対する答えなんです。もうそのままではあなたがたはどうにもならない。でも今、恵みと赦しの福音を告げる。だからそれに食いつきなさいと。その時にもう一度福音のレベルで悔い改めをイエスは説いたんじゃないかと思うんですね。

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