2007年11月2日放送
●第8回「イエスにとっての神の国」●
■イエスの説いた神の国とは | |
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」(マルコ1章15節) このイエスのメッセージですが、まず「時は満ちた」ということは終わりの時、終末が到来したという宣言だと思うんですね。「神の国は近づいた」ということは、神様が真の支配者として最終的な働きを始められたという宣言でしょう。そして「悔い改めて福音を信ぜよ。」だからこの神様の働きかけに一人一人が応えるようにということだと思うんです。 イエスのメッセージはいつもこうした、〈宣言〉と〈応答を求める〉という両方の事柄を含んでいると思うんですね。 イスラエルの民族にとって、自分たちを絶対的に支配しているのは神のみであるという意識があり、バビロニア捕囚の頃から徐々に、神様がその支配権を実際に示される時が来るという考え方が高まっていきました。そこで「時は満ちた、神の国は近づいた」と言えば、ほとんどのユダヤ人は耳をそばだてたわけです。そこで、いったいイエスはどのような神の国を説かれたのか。 第一に、イエスも、このイスラエルに約束された神の支配が始まったのだということを説いておられます。ただしそれを、洗礼者ヨハネは神の怒りと裁きが来ると説いたわけですが、イエスは、それは救いの時の到来であると説いたわけです。こうしたことが最もよく現れているのはルカ福音書におけるイエスの宣教のはじめです。 「イエスは…会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、『主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである』。…会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、『この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した』と説きはじめられた。」(4章16〜21節) ここで「主のめぐみの年(ヨベルの年)を告げ知らせる」と言っています。ヨベルの年というのは、五十年に一度イスラエル民族の中で神の救いを少しでも社会的に実現しようという意図から、奴隷になっていた者は自由にされ、借金もゼロになります。今ここで「ヨベルの年を告げ知らせる」と言った時は、そういうふうに社会制度の中で象徴的に表されていたことではなくて、今、神の恵みの年そのもの、その本体が、象徴ではなく実現するのだということを述べているわけですね。ということは、イスラエルの希望が実現したという宣言でもあるし、それは過去にイスラエルが体験したすべてを超えるような救いの業であるということにもなります。 イエスが説いた神の国の第二の特徴は、イエスの存在と神の国の到来は不可分であるということです。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」。つまりイエスがその聖句を宣言したことをもって来たということなんです。 あるいは、イエスが悪霊を追放し人々を癒したことについてファリサイ派の人々の論争(ベルゼブル論争)になっているんですが、その中で決定的なイエスの言葉は「もしわたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにきたのである。」(マタイ12章28節)イエスの業が行われる時、そこまで神の国が来ているということです。 つまりイエスは神の国を宣言しているわけですけど、自分自身でその神の国を実現しながら告げていったという感じがあるわけです。ですから神の国の福音というのはいつでも通用するメッセージというよりも、彼が語ったからこそ、というわけですね。イエスと共に解き放たれた一種の出来事であるわけです。 この「語る」ということは、語った時、何事かが起こるわけです。たとえば「あなたを愛します」とか「あなたを赦します」というのは、言葉が発せられた時に初めて実現するんです。そういうふうに、イエスの登場と神の国の到来ということは密接に結びついて離れないものであると思います。 人々はイエスの告げたことに耳をそばだてたと思いますが、同時に、通常彼らが期待していたものと何か異質なものを感じたと思うんです。 「目がまだ見もせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(第一コリント2章9節)。 イエスが伝えようとされたことはまったく新しい、ユニークであるということなんですね。そうしたことをよく表すのはマルコ2章22節の言葉だと思うんです。 「だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」。 古い皮袋っていうのは旧約的な発想のすべてなわけです。イスラエルの神の国の期待というものは元来、一つは終末においてダビデ家が再興され、イスラエルは勝利を収めて敵は粉砕され、世界の真ん中にエルサレムが立つといった、この世における神権政治とでもいうようなものの実現です。もう一つは、この世のものは全部過ぎ去り、神が準備された新しい天と地が降ってくるという黙示的な形での神の支配の実現です。イエスの神の国のメッセージにはそのどちらの色彩も一切ないわけです。 イエスが特に主張したことは、神の国は隠れているという点なんです。「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』。」(ルカ17章20、21節) 「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」(ルカ13章18、19節)。 種というのはちょっと見たところ干からびてて、これがどうなるかと思うようなものです。しかし種っていうのは外見とは違って命のかたまりみたいなものです。イエスが多くの種のたとえを語られたのは、福音の性格の本質と関係している気がするんです。神の国というのは目に見えない隠れた形、通常のそれまでのイメージとは違うものだということを言っているわけですね。 つまりイエスの説いた神の国の特徴は、約束の成就であると同時に、多くの人にとって期待外れであったわけです。実際にイエスは徐々に見放され、多くの人が離れていった。イエスが説こうとしていることは、多くの人にとって受け入れがたい事柄であるという面も現れてきたことになります。 ファリサイ人は熱心に律法を守ることをとおして神の終末的支配を来たらせようとしていたように思われるんです。それに対してイエスは、これは恵みだ、人が何をしようと来るときは来ると。 「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせる」(マルコ4章26〜28節)。 寝ている間も、種は自分の力で育っていく。なぜそうなるか知らないと。神の国っていうのは神様の命そのものの働きであって、私たちがどうこう言うもんじゃない、ただいただくものであるということなんですね。 | |
■神の国に対する人からの応え | |
洗礼者ヨハネが説いた悔い改めは、神の最終的な裁きが来るから、来る前に悔い改めなさいということなんですが、イエスの場合は、神の国がもう既に来てしまっている、だから悔い改めよ、という感じなんです。 たとえばルカ15章に一匹の羊と九九匹の羊とか、失われた銀貨のたとえがありますけど、羊とか銀貨っていうのは悔い改めも何もあったもんじゃない。それを羊飼いが捜しにそこまで行ってかついで帰ってくる。そこに神のほうから行って、行ったときにそれに応えるということなんですよね。このようなことを典型的に表しているたとえ話がマタイ13章44〜46節だと思うんです。 「天の国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天の国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」 ここでは、今まで申し上げたイエスのメッセージとの出会いをまず前提としているわけです。その上で、そのメッセージに出会った人の態度が中心になっているんです。 それまでの生活はすべて放棄されて、新しいものに専念する。その「すべて放棄して」ということが重要なわけです。部分的に関心を持つ、半分だけそっちを向くということはできない。新しいものにすべてをかけるということです。これをもって「悔い改め」というふうに言っているわけです。 別に悪人にとってだけでなく義人と呼ばれていた人でも誰にとっても、まったく自己転換をする必要があるわけです。つまり悔い改めが必要となる。この根本は、従来の自分を捨てて、与えられた命そのものをいただく、神の支配を自分にまず来たらせるということなんですね。ですから「まず神の国とその義とを求めよ。その他のものは、それに添えて与えられる」(マタイ6章33節)というこの原則は絶対なわけですよね。これが「悔い改めよ」という言葉の内容だと思うんです。 そして「福音を信じなさい」と。 何か持っている者は専念することができない。幼な子っていうのは何も持ってないんですよね。神の国というのは神からの一方的なもので、一方的に与えられるものに対して、ただ無条件にそれを受けるということだけが求められる。これを「信じなさい」という言葉で言っているわけですね。 「信じる」というのは、自分のほうからの業「私はこれを持っている」とか言い出したとたんに崩れてるということです。ですから「信じる」というのはひたすらそれに向かいなさいというところにつながっていきます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」(ルカ11章9節)と。ちょっとやってみたけどダメだったという程度じゃダメだと言ってるんですよね。 たとえばルカ十八章で「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官がいた」(2節)と。そこに一人のやもめが来て「私の訴えごとを取り上げてください」と言うんです。でもそんなの相手にもしない。しかしやもめはくどく訴え続け、裁判官はとうとう閉口して、取り上げようと。 「神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」(7節) このようにひたすらそれに向かえということが求められている。結局そのことが、祈りということになるわけです。イエスは「絶えず目を覚まして祈っていなさい」と言われます。他のところでは「異邦人のようにくどくどと祈るな」とも言っています。つまり、言葉でなくて、自分がもう真正面から神様に向かっていけということなんですね。それが「絶えず祈れ」という意味でもあると思うんです。 ですから私たちは聖書の中で伝えられた主の祈りを大切にしています。「父なる神よ」とそこに面と向かって「御国が来ますように。御旨が行われますように」と祈る。まさに祈りっていうのは、神の支配、神の国っていうものに対する応えなんですね。 | |
■希望のない今の時代に新たな希望を与える | |
そういう時代に、イエスの告げた神の国は、新たに希望を与えるものじゃないかと思うんです。人がもう一度、何をおいても大切なものに向かい合う。そこにおいて本当に自分が生かされる、生きる目標を見出していく。 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。この言葉は、何も起こっていないような時代にあって、もう一度私たちに勇気と力を与えてくれるんじゃないかなと思うんです。 | |