キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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2007年9月7日放送
第6回「福音書のイエス」

 福音書の奥にある実際のイエスはどういう人物であるかということが、聖書学で200年以上追求されてきました。こういう史的イエスの研究は今日も盛んなわけですけど、ある程度のイエス像しか描けないような気がするんですね。

 別の言い方をすると、イエスは神様をもたらそうとされたということは福音書の意図から見れば明らかなわけですが、そういう事柄は後退してしまって、どういう時代に、どういうタイプの人物として、どんな運動を展開したかといったようなことにとどまっている感じがするんです。これは福音書を福音書として読む基本的な姿勢ではないと思うんですね。

 そこで、福音書が福音書として、イエスという方をどのように提示しているかを見てみたいわけです。

 最初にマルコ福音書が書かれ、ほどなくマタイ、ルカがそれに倣って書き、しばらくたってからヨハネ福音書が書かれました。確かに福音書というものは一つの〈創作〉です。しかしここまで一人の人物をメシアとして、あるいは神の御言葉として提示していったということは、単に誰かが作り上げたというようなことだけでは生まれてこないと思うんです。

 ですから福音書そのものがどんなイエスを描こうとしているかっていうことをまず見ておいたほうが、不毛な結果に終わらないんじゃないかと思うんですね。そういう意味で、各福音書の書き出しの部分に注目してみたいんです。その部分が一番、それぞれが、イエスは何者かをわかりやすく語ってるんです。
 

マルコ福音書


「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」(1章1節)

 原文では「はじめ、福音、イエス・キリストの、それは神の子である」と、まったくさかさまの順番 です。

 「はじまり」という言葉は明らかに創造のはじめということを意識して、新しいはじまりということを提示しようとしていることがわかります。何のはじまりかというと、「福音の」。これはもともとイザヤ書の言葉です。

 よく福音のことを「よき知らせ」と訳されますね。言葉はもとは同じなんです。たとえばイザヤ書52章7節「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」そうしますと「福音のはじめ」とは、非常に旧約的な響きを持っているわけです。

 次に「イエス・キリストの」とはどういう意味でしょうか。一番平凡な考え方は「イエス・キリストが説いた福音」。でもたぶん、イエス・キリストという方そのものが福音であるという意味が強い気がします。

 マルコ福音書では、たとえば8章35節「わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救う」と、イエス・キリストと福音とが平行に置かれています。ですから福音とイエス・キリストとは同じもののような感じで提示しているように思われるんです。

 そしてそのイエス・キリストという方を「神の子」としているんですね。3章11節では「けがれた霊どもはイエスを見るごとに…『あなたこそ神の子です』と言った。」14章では大祭司がイエスに「お前はほむべき方の子、キリストか」と聞くとイエスは「そうである」と答えていますね。そして十字架上で亡くなったときに百卒長と呼ばれる異邦人がイエスを「まことにこの方は神の子であった」と。

 そうしますとマルコ福音書は、神の子である方が福音そのものとなられた、この出来事の根本を語りますということで、その展開においても徐々にそのことが明らかになっていくという構造なわけです。

 「イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」(1章9節)

 その時に三つのしるしが現れたと述べています。天が裂けた、聖霊が下った、そして天から神の声が響いた。これはみんな旧約的に言うと、終末の時に起こる事柄です。

 天が裂けるっていうのは、イエスが亡くなったときに神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたとありますけど、神様と私たちの間に通路ができたということでしょう。霊が下って来た、これは終わりのときに遣わされるメシアに与えられる霊であり、またすべての人にこの神の命が分かち与えられるということです。そして神の声が響き渡る。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」(11節)。マルコはここで初めて神様からのイエス紹介をしているわけです。
 

■マタイ福音書


「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」(1章1節)

 アブラハムっていうのは旧約聖書ですべての信仰者の父みたいな形で現れてくるんですね。「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受ける。」(創世記18章18節)「アブラハムの子」というのはこの約束が実現した方という意味です。そして「ダビデの子」というのはメシアであるという意味です。それをより信憑性のあるものとするために系図を出すんです。

 この系図はアブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへ移されるまで十四代、バビロンへ移されてからキリストまで十四代と、七の二倍の三倍なわけです。七と三はパーフェクトナンバーですから、この系図によって実現するイエスに至る救いは完全であるというようなことを含んでいるわけです。

 そこで実際の系図を吟味してみますと、実はかなり汚れた系図なんですね。男がずっと並んでいますが、四回だけ産んだ女性が出てきます。それはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻。タマルっていうのは相手を騙して近親相姦によって子を産んだ。ラハブは娼婦。ルツは異邦人。そして極めつけは、ウリヤの妻によってダビデはソロモンを生んだ。そうしますと、完璧な数をそろえているにもかかわらず、人間の罪深さとか痛みを背負ってきた系図で、そういうことの末に、神のすべての国民に対する祝福の実現でありメシアであるイエスが連なっているということを述べているわけです。

 ところがこれはもともとヨセフの系図で、「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった」(16節)とありますが、なんかおかしいんですよ。ヨセフがイエスを生んだというふうになってないんです。イエスは聖霊によって宿り、ヨセフは父ではないんです。ですからどうしてもダビデ家の家系に連なることができない。ところがダビデ家に連なってないとメシアになる資格がない。そこでさらに「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」(18節)というふうにヨセフの話を続けているわけです。

 もしヨセフが実際のイエスの父であったならこういうことを語る必要はなかったわけです。「母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」ヨセフは「ひそかに離縁しようと決心した」(19節)。ヨセフの意向も、マリヤとその子はこの系図に入らない方向に働いていたということですね。

 じゃあ誰がこの系図にマリヤとイエスを入れたかっていうと、「神の使いが夢に現れて言った。『恐れずマリヤを妻として迎えよ。』」(20節)こういうふうに神の意思だけによってイエスはダビデの末に入れられた。そして「その名をイエスと名づけなさい」(21節)と。さらに「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)というイザヤ書の言葉が引用されます。

 「イエスと名づけなさい」、「インマヌエルと呼ばれる」って名前違うじゃないかと。このインマヌエルという言葉自体、名前であると同時にヘブライ語の文章で、「我らと共にとどまっておられる神」という意味です。これはイエスの本質を表しているんです。つまり、神の意思によってだけ、アブラハムの子、ダビデの子とされた、そして聖霊によって宿った、神からのもの、そしてその本質的な意味は、我々と共にとどまってくださっている神であるということです。

 そのことをよく現すのはマタイ福音書の最後ですね。復活したイエスは弟子たちに「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にある」(28章20節)と、はじめに提示されたイエスの本質で結ぶわけです。
 

■ルカ福音書


 ルカはイエスをどのような者として提示しようとしているのか。1章35節で神の使いはマリヤに言います。

 「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」

 さらに天の使いが賛美の声をあげます。
「見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」(2章10、11節)

 こういうふうにルカはイエスを、神から来られた神の子であり、すべての人にとっての救い主であると提示しています。つまりイスラエルとの密接なつながり、さらにそれを大きな歴史的な視野において、もっと普遍的なものとして提示しようとしているんですね。
 

■ヨハネ福音書


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1章1節)
「初めに」というのはまったく創世記と同じ書き出しです。まずイエスを神の世界から説き起こしているわけです。

 次に「すべてのものは、この言によってできた。」(2節)
ここに新しい創造が始まっていると言えるかもしれないですね。「彼(この言)によってすべてのものができた」と言ったときに、「彼なしに何ものものできなかった」とも言っているわけです。となると彼が創造の仲介をしたというよりも、むしろすべての存在の目的、すべてを支えているのはこの彼だという意味合いが強いかもしれません。

 そして「この言に命があった」(4節)。さらに「この命は人の光であった。」そして「光はやみに輝いた」(5節)と語られ、その光は「まことの光」(9節)であり、その光が「世にきた」というふうに、だんだんと、神の世界から説き始めて、その神の言そのものがこの世に来たと。そしてこの世はそれを「受けいれなかった。」(11節)

 つまりヨハネ福音書は、この世っていうものは闇であって、そこに光が来る。そして世は彼のことを知らなかったと言うわけです。別の言い方をすれば、イエス・キリストを通してもたらされた福音、あるいは神の言は、まったく新しい事柄であったということです。

 ですから洗礼者ヨハネがイエスを指し示すときにこういう言い方をしています。「あなたがたの知らないかたが、あなたがたの間に立っておられる。」(26節)

 まったく新しいものが来ている、今までのこととは違うんだということを言ってるんですね。そういう説き起こしの中で、このプロローグの頂点として14節の言葉があるわけです。

「このロゴス(言)は肉となり、わたしたちの間に宿った。」

 これはある意味で旧約聖書的であり、また旧約聖書を超えるようなものです。「肉」っていうのはいわば弱さとか罪とかそういったものを背負ったこの世なわけですね。そのこの世に来て、私たちの間にテントを張った。文字どおり訳すとそうなるわけです。ここに旧約のイメージがあるんです。イスラエルの民が荒れ野を彷徨した間、契約の箱を置いたテントにはいつも神の栄光が輝いていたわけです。そしてわたしたちの間にもう一つのテントを張った。「わたしたちはその栄光を見た」と言ってるんですね。さらにその栄光は「めぐみとまこととに満ちていた。わたしたちは、その満ち満てるものの中から、めぐみの上にめぐみを加えられた。」(14、16節)

 そういうふうにイエスという方を神の御言葉という形でその本質的なものを提示し、同時に体験的なものとしてイエスの福音を提示しようとしています。

 ヨハネ福音書の第一の結び20章31節で「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるため、そしてそう信じることによって、イエスの名によって命を得るためである」と。ここにおいても「言に命があった」というところから、この福音全体が述べるのは、そのイエスの名によって命を得るということを主題としているということがわかります。
 

■結論


福音書は、特にその書き出しを見ると、それぞれの強調点が違うと言えます。しかしそれに続く福音本体というものはそんなに違いはないです。

 福音書は確かにある種の創作ですけれど、そこにある真実性、共通性というものはかなり強いんです。ですからこの福音書を歴史的資料としてだけ扱うのは、ちょっと足りないと思うんです。

 基本的にこれが最初のクリスチャンたちが正しいと思っていたイエス像である。そしてそこにはたぶん、実際のイエスの記憶というものがいろんな形で昇華されたり保たれたりして残っているのではないかと思うんです。

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