2007年10月18日放送 |
「目を高く上げよ」 |
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わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章16〜17節) 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。…世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。…滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。(18〜23節) パウロは、人間のあらゆる不信仰と不義に対して、神の怒りが啓示されることを知らせています。この18節以下で問題視されている人間とは、律法によるヤーウェの神を知らない非ユダヤ人のことです。しかし次の2章からは、ユダヤ人もまた律法を規準にして罪と不義に陥り、神の怒りを受ける運命にあることを明らかにします。そしてついに3章9節以下におきまして、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪の下にあり、「義人はいない、ひとりもいない」(10節)として、すべての人の上に神の怒りが下ることを告知するのです。 1章16、17節においてパウロは「信仰によって義人は生きる」ということを高らかに打ち出したにもかかわらず、その直後に一体どうしてそれを台無しにしてしまうかのように暗い罪の現実を語りだしたのでしょうか。17節で救いをもたらす神の義が啓示されたと言っているのに、18節で天から神の怒りが啓示されると言うのは矛盾してはいないでしょうか。この17節と18節の間はどうつながっているのでしょうか。 結論から申しますと、人が神の前で義とされ、救いに与るのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであるが、あるいは律法を忠実に守り行うことによって神の前に義とされる道もあるのであろうか。否である。異邦人であれユダヤ人であれ皆、神の前で罪人であり、例外なく神の怒りを受けている。それゆえにどの人も、ただ信仰によらなければ神の前に義とされ、救いに与ることができないのだと語るのです。 ではキリストへの信仰に固く立つ前には、人間は神の怒りを受けていたのでしょうか。パウロは「そのとおりである」と答えつつ、神の怒りと裁きは人間の不義の状態にまったく干渉なさらず、沈黙して放置しておくことの中に存在すると言うのです。「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」(24節)。放ったらかしていると言うのです。なんと恐ろしいことでしょうか。 しかし、私たちがキリストの十字架を信じ仰ぐときに、はっと気づくことがあります。それは、キリストの十字架の死の中に、神の決定的な怒りと裁きが啓示されたということです。それは私たちのためです。イエスがその御苦しみのあまり十字架上で叫んでおられたときに、神はそこで沈黙し、放置なさいました。十字架上には、人間を救いに入れる神の義が啓示されるだけではなく、そこに神の怒りと裁きもまた現れました。しかし神は御子の復活において、ご自身の怒りを最終的に克服なさり、救いをもたらす神の義を押し通されました。これもまた私たちのためです。 |