2007年4月18日放送 | ||
| 西堀和子氏 | |
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネ10:14、15) | ||
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2004年の春、夫は転任し、私たちは東京の大きな教会に参りました。教会にはたくさんの人がいて、行事や奉仕もたくさんあり、出会いも様々です。私が望む出会いだけを選ぶことはできません。 たくさんの人や言葉、出来事との出会い、それは、私が長く社会で培ってきたような、上手にできる方法を貫かせてはくれませんでした。でもその中でどうにか上手く、何事もないように均衡を保って奉仕しなくては、と焦る毎日でした。あちこちがほころび始め、ただ目の前に迫ってくる出来事だけが私をせっついて、一つ一つの出会いからまるで逃げているように、ただ忙しく苛々と毎日過ごしました。 そんな頃、ある本と出会って、その本が表す父なる神様と御子イエスの深い愛の交わりに憧れました。主イエスと同じところを見ていれば、平安に満ちた静かな生活が訪れる、そう信じて、私はこう祈るようになりました。「主よ、あなたが見ておられるものを見させてください。」しかし今思い起こすと、その頃の私はまったく勘違いをしてこう祈っていました。 私は、イエス様がご覧になっているものは、とても清くて聖なるものだと思い込んで祈っていました。ですから、イエス様がご覧になっているのはこれかしら、あれだろうかと、キョロキョロと周りばかり見回していたと思います。その時の私はまったく自分を見失っていました。今、生きているということを見失っていたんです。 同じ頃、ある黙想会に出席することができました。その会では、心を静めて、体も静めて、〈今〉という時に集中します。そしてリーダーに導かれていくつかの祈りを体験します。その中にこんな祈りの方法がありました。 各自、自分の前に椅子を一つ置き、その椅子に主イエスが座っておられると想像します。リーダーはこう導きました。「目の前に座っておられる主イエスに、自分が今、抱えている問題や思うこと、相談したいことを話しなさい。」私はこう言いました。「イエス様、私はまたあの忙しい毎日に戻るのが恐ろしいです。この祈りの会でとても平安に過ごすことができたのに、またあの日常に戻ってしまったら、どうしたらいいでしょうか。」 主はすぐに答えてくださったんです。「あなたは『忙しい忙しい』と言っていたけれど、あの時も、この時も、わたしはいつもあなたと一緒だった。」このお言葉を聞いた途端に、私は思いがけない言葉を口にしました。「主よ、私は人々が怖いのです。」私はその時までまったく気付いていませんでした。こんなにも人や出来事と出会うことを恐れていることに。 この黙想会での気付きは、私が抱えている問題を噴出させました。いろんなことが上手くいかなかったのは、私自身に問題があったのです。上手にできる人々への嫉妬、そして怒り、焦り、虚しさ、「どうせこんなことしたって…」という投げやりな思い。がく然としました。私は自分をもう少しましな人間だと思っていたんです。さらにそれを全部、私は主イエスにぶつけました。なじるような思いを持って。「どうですか、イエス様。私はこんなに醜くてどうしようもないんです。こんな人間、いらないでしょ。なんでこんな私のためにあなたは命を捨てられたんですか。」 「共にいるよ」と言ってくださる主イエスに、平気でこんな言葉を放つ人間です。本当に醜くて、腐り果てて、異臭を放ち、ただれきっている自分の内側がはっきりと見えるようでした。マグマが噴き出すようにいつも沸々と暗い思いが湧いて、「罪」という言葉の方がずっとずっと美しいと思われるような、私の闇。「主よ、いらないでしょう。こんな人間なんですよ、私は。」 寝ても覚めてもこの思いは私を去りませんでした。でも、主はずっとそこにいてくださいました。自分の闇を初めて見てうろたえる私と共に、ずっとそこにいてくださいました。そして、この最も醜い、悪臭と腐った汚物にまみれて、その場所に主イエスは立っておられて、こうおっしゃったのです。「あなたがこういう者であることを、わたしはよく知っている。」驚きました。主イエスはまったく平安で、なじることなく、一言も「あなたはこんなに汚いから、清くなりなさい」とか「こういう部分をもっと直しなさい」とかおっしゃらない。ただただまったく平安にくつろいで、おっしゃいました。「わたしはあなたを知っている。」 「主よ、あなたがご覧になっているものを私にも見せてください。」以前に祈った私の祈りは聞かれました。主イエスがご覧になっているものは、私の美しい行いや、良くできた奉仕なんかではなくて、最も醜いもの、私のどうしようもない部分、主イエスの恵みなしではどうにもならないところ、父なる神様から一番遠い場所を、イエス様は憐れんで見つめていてくださいました。いえ、見つめるだけでなくて、その真ん中に立っていてくださったのです。汚れにまみれて立っていてくださった。しかもそこから私を認めてくださった。今、改めて驚きます。こんな認め方があるんだ! 「わたしはあなたを知っている。」この主イエスの言葉が、今、主イエスがご自身の命をかけて、このどうしようもない私の命を肯定してくださる証の言葉となって、そしてそれがそのまま父なる神様に結びつけてくださる命の言葉として、私の前に立ちはだかります。この御言葉の深さに驚いて、ぼう然と立ちすくんで、でもそれからストンと私の腑に落ちて、私の宝となって、今、私を確かに支えてくださっています。 | ||
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