キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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7月13日(金)放送


第4回「キリストが建て給う教会
<教会選挙主日説教>」

(マタイ 16:13〜18)

この「教会選挙主日説教」は、1933年7月23日、つまりヒットラーの政権奪取から半年後に、ベルリンの三位一体教会で行われたものです。教会選挙とは教会の責任ある役職者を選ぶ選挙で毎年行われるものです。ただ、この年は特別でした。ヒットラーのナチ政権が、本来教会内部の事柄である選挙に露骨に干渉してきたからです。ヒットラーの言いなりになる教会に変えていきたいと思って、ヒットラーに従っている「ドイツ的キリスト者」と呼ばれる人々の中から大勢選ぶために、政府は教会に何の相談もなしに選挙の日取りを決定し、「追放者名簿」を作り、各教会に配布しました。結果、選挙ではドイツ的キリスト者が圧勝したのです。

ボンヘッファーはこういう結果になる危惧を感じ、それだけに当日の説教で黙っている訳にはいかなかったのでしょう。教会とは本来いかなる存在であるかということを切々と訴えるのです。

この日のテキストはマタイ福音書16章13〜18節。「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。弟子たちは言った。『「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、「エリヤだ」と言う人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の一人だ」と言う人もいます。』イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。すると、イエスはお答えになった。『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』」

ボンヘッファーは言います。「イエスは、死に直面して、最初の受難告知の直前に、ご自身の教会を約束される。従って、死に直面した教会―およそそのようなことがここでは考えられているに相違ないのである。」

ここでボンヘッファーは明らかに、ナチス政権の下で死に直面している教会を念頭に置いていると思います。教会はヒットラーによって似ても似つかぬものに変質させられている。そして今や教会としては瀕死の状態である。表面的にはドイツ的キリスト者は勢いが良く、大言壮語しているけれども、真実の教会としては死にかけている。そのことにボンヘッファーは気づいていたと思います。その教会を念頭に置きながら、イエスはご自分の死に直面した時に、ご自分の教会を約束されたのだと言っているんです。この瀕死の、人間的にはとても勝ち目がないと思われる教会の中に、キリストの約束は厳然として生きている。そう言いたいのでしょう。

この言葉は、日本の教会にも当てはまると思うんです。弱い教会、小さな教会、時としていろんな問題を抱えて死にかけているような教会もある。しかしそういうことの中にキリストがご自分の教会を約束されているということが、信じられなければなりません。

その後、ボンヘッファーは次のように語っています。「決定的な問いをイエスご自身が発し給う。『人々は人の子をだれと言っているか。』彼らは答える。『ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかしほかの人たちはエリヤだと言い、また、エレミヤ、あるいは預言者の一人だと言っている者もあります。』それは諸々の意見以外の何ものでもない。しかし、意見の上に、キリストはご自身の教会を建てようとはし給わない。イエスは今や直接呼びかけて問われる。『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。』このキリストとの避けることのできない対面においては、『おそらく』とか『ある人々は言っています』とか、意見などというものはもはや不可能であって、ただ沈黙するか、それとも、その時ペテロがしたように『あなたこそ、生ける神の子キリストです』と答えるしかない。このような答えのなされるところには、人間的な見解や意見の渦中に、まったく新しいことが現れている。ここにはもはや人間的な意見はなく、まさにそれと反対のものがあるのだ。ここには神の啓示があり、信仰の告白がある。

ペテロをほかの人たちと区別するものは何であろうか。彼は他の人たちをしのぐほどの英雄的な人物なのであろうか。驚くほど毅然たる性格の持ち主なのであろうか。揺らぐこともなく忠実な人間なのであろうか。そうではない。ペテロは、告白する人間、キリストが彼の行く手にはだかり給うて、キリストを認識した人間、そして今や、キリストを信仰によって告白する人間以外ではなく、決してそれ以外のものではない。そしてこの告白するペテロが岩と名付けられ、その岩の上にキリストはご自身の教会を建てようとし給う。」「ペテロの教会、それはすなわち岩の教会、キリスト告白の教会である。諸々の意見や見解の教会ではなく、啓示の教会である。『人々の言う』ことについて語られる教会ではなく、ペテロの告白が新たに告白され、遂行される教会である。いつもただこの告白を、歌いつつ、祈りつつ、宣教しつつ、行動しつつ、遂行することのほか、断じて何をもしない教会である。」

その後に続けてこう言うのです。「しかし、ペテロの教会、それは純粋に誇りを持って語れるようなものではないのである。ペテロは、ユダが主を裏切ったあの夜、主を否認した。ペテロは『サタンよ、引き下がれ』(マタイ16章23節)とイエスが叱責された弟子である。彼は後にも繰り返し弱さを暴露し、否認し、堕落した、弱い、移り気な、瞬間に左右される人間である。ペテロの教会、それは、このペテロの弱さを分かち持つ、自ら重ねて否認し、堕落する教会、自己の委託から重ねて目をそらし、この世と自己の考えに目を向ける、不忠実な、信仰の薄い、恐れに包まれた教会である。ペテロの教会、それは主のためにまさに立つべき時に、その教会のすべての者が自らの主を恥じる、そのような教会である。」

ペテロの教会とは決して栄光の教会ではありません。罪と弱さにまみれた教会です。しかし、そこでは終わりません。実に慰め深い言葉が次に語られます。

「しかし、ペテロはまた、『外に出て激しく泣いた』(マタイ26章75節)とも言われている人である。ペテロの教会はただ単に、告白し、否認することもある教会というだけではない。泣くことのできる教会でもある。この涙を流すことこそ、帰る道を見いだしたこと、帰郷に向かっていること、父の前に泣きながらひざまずく放蕩息子であることに他ならないからである。ペテロの教会は、喜びに至る、神の御心に添うた悲しみをなす教会である。」「本当に揺らぎ揺らめく地盤ではないか。しかしそれでも、岩の地盤である。このペテロ、揺らぎ揺らめく葦は、神によって召され、とらえられ、支えられているからである。『あなたはペテロである。』我々すべてがペテロである。恐れに包まれた、不忠実な、信仰の薄い者、しかし神によって支えられた者として、ただキリストに対する告白によって生きる我々すべてがそうなのである。」

この説教を結ぶにあたってボンヘッファーは次のように訴えます。「教会を建てようとする者は、確かに既に破壊の仕事に取りかかっているのだ。そのような人は心ならずも、図らずも、偶像の宮を建てるだろう。『彼(キリスト)が建て給う』と我々は告白すべきである。『彼が建て給う』と我々は宣べ伝えるべきである。『あなたがお建てになります』と我々は彼に祈るべきである。我々はキリストの計画を知らない。彼が建て給うか壊し給うか我々にはわからない。人間的に考えれば倒壊の時が、彼にとっては建設の大いなる時であるということもあるであろう。人間的に見れば教会の大いなる時が、破壊の時でもあるということもあるであろう。『わたし(キリスト)を治めてはならない。教会よ、自らのなすべきことを正しくなせ!』」

これは、ナチズムの圧力の中で本当のあり方を見失ってしまっていたドイツの教会にだけではなくて、すべての時代のすべての教会についても当てはまる言葉ではないでしょうか。

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