キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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11月9日(金)放送


第8回「赦しについて」

(マタイ 18:21〜35)

今日取り上げます「赦しについて」という説教では政治的な状況に直接言及するようなことはあまりありません。むしろマタイ福音書に出てくる赦しについて、心を潜めて語っている、そんな感じがいたします。

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と言った。仲間はひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。』」(マタイ福音書18章21〜35節)

彼はこの話の後で、次のような言葉で語り始めます。

「我々は自らに尋ねてみよう。我々の周囲に、彼の不正を我々が赦さなかった人がいないかどうか。『もう我慢ならない、この人とはもう絶交だ』と思って決別した人がいないかどうか。」「いつか誰かが、『あなたは私から離れて行った。私に忍耐出来なかった。私があなたを悲しませたので、私を独りぼっちにしてしまった。私はあなたを訪ねたが、あなたは私を避けていた。私はあなたの赦ししか求めなかったが、あなたは私を赦すことが出来なかった。』と訴えないだろうか。その時には、我々が忘れかけている名前が、次々と現れるのではないだろうか。」これは共同生活をしていればよくあることですね。そして彼はこう続けます。

「それは我々に対して恐るべき声となるだろう。『あなたが今どんなに愛想を作ってみても無駄だ。私たちはあなたにはどうでもよく、邪魔者だった。あなたは、赦しが、それを受ける者にはどんなにありがたく、そして赦す人をどんなに自由にするか、知らなかった。あなたはいつも無情だった。』」

こう言った後で、彼は赦すということがどういうことか説明しています。

「赦すということ、それはその人について本当に良い思いを持ち、他に仕様が無い時にはその人を堪忍することだろう。だが、我々はそれを避ける。その人のことを決して真剣には考えていないのだ。しかし肝要なことは、どんなに面倒で不愉快でも、他人を堪忍することだ。そしてその人の不正と罪については、たとえあなた方に対するものであっても、沈黙することである。絶えず堪忍し、絶えず愛する。それが赦しに近づく道である。」しかし、これは容易ではないと彼は申します。

「堪忍する人がまず知ることは、それがいかに困難か、ということである。我々は幾度も口にする。『私には、これ以上あの人には耐えられない。』」これは私たちも良く分かると思います。こういう日常の例を考えた後で、彼は聖書に戻って行きます。

「『主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、幾度赦さねばなりませんか。』彼は反省もしなければ思いやりも無い。彼は無制限に私を悲しませているのに、いつまで私はそれに耐えねばならないのでしょうか。主よ、幾度。」何回赦すべきですか、とペテロが尋ねた問いは、いわば、私たちの本音を代表していると彼は考えているようです。「七回までですか」という最後の問いを、「七回も我慢すればそれで十分ですか」という意味にとっています。「もういい加減赦すのにはうんざり」という本音が潜んでいるのです。ところが、私たちはそういうペテロを見てせせら笑うのだと、彼は言うのです。

「七度、それどころじゃないよと我々はペテロをせせら笑う。我々はもう既に何度赦し、また見逃してやったことか。」「しかし、我々にはペトロを笑えるれは無いのだ。七度赦す、本当に赦す。すなわち我々に対してなされた不正を最上のものに完全に転ずる。ただ善を持って悪に報いる。それは決して小さな事ではない。」こう言った後で、彼はイエスに想いを集中し、彼から私たちの生き方を学ぼうとしています。

「この問いに苛まれる時には、ペトロのしたように、いつもイエスのところに行くことにしよう。イエスは助けて下さる。だがそれはまことに不思議な仕方によってである。『七度ではない、ペトロよ。七度を七十倍するまでにしなさい』とイエスは言われる。そのようにすることのみが助けとなるのを、イエスは知っておられる。『ペトロよ、数えてはならない。無限に赦すがよい。それが赦しなのだ。そしてそれがあなたに対する恵みなのであり、そうすることのみがあなたを自由にするのだ。』」

「あなたがなおも数えている限りは、繰り返し他人の罪を数えているのであって、実際には未だ一度も赦していないことを、あなたは気づかないのか。数える事から自由になれ。赦しは、数も終わりも知らないのだ。あなた自身の正しさに心を煩わす必要は無い。それは神のところに蓄えられているのだ。無限に赦すがよい。赦しには初めも無く終わりも無く、日ごとに絶え間なく起こるのだ。赦しは神から来るからだ。赦すことによって、我々は自分自身から解放され、赦すことによって、自分自身のあらゆる正しさを捨てて、他者を助け仕える事が許されるのだ。」この大切な考えを彼は更に深めております。

「たとえ他人が繰り返し我々に不正を働いても、もはや神経質になる必要は無い。他人を正す必要ももはや無い。他人をそのままに受け入れさえすれば良い。そして何もかも、無制限に赦せばよいのだ。我々が隣人とこのような平和を持つ事が赦されるという事。何者も我々のこの平和を乱す事は出来ないという事。それは本当に大きな恵みではないだろうか。」決定的に重要な言葉が更に続きます。

「あなたがたは互いに赦す事が許されていると、イエスは言い給う。それは本当に喜びの訪れである。」赦すという事は、自分自身から解放される事だ、喜びの訪れだと言うんですね。

しかし、私たちはそのことを真剣に受け止めようとしません。

「しかし、イエスが我々に真に大いなる助けを与えようとし給う時に、我々は直ちに言う、『なんと困難で堪え難い事か。それは助けではなく重荷である。何もかも赦し堪忍するなど、誰にそんな事が出来るというのか。』『嫌だ!私はそんな事をしようとも思わないし、出来もしないさ。他の人間だって本当にそうされる値打ちなんてあるものか。』」この不信仰に対して、イエスは怒ると彼は言うのです。

「我々がそのように言うや否や、直ちにイエスは我々を怒り給う。我々はイエスに無限に助けを求める事が許されているのに、『それは助けではない』と言う。イエスはそのような事は欲し給わない。『あなたは赦す事が出来ない。あなたは赦そうとしない。「他人にはその値打ちなんか無い」と言うあなたは一体何者なのか。』そしてイエスは、大いなる怒りを持って、悪いしもべの物語を話し給う。そしてこの怒りの物語を話す事によって、彼は真の赦しへの道を指し示してい給うのである。その道を今、我々は理解しようではないか。」悪いしもべの話は、実は私たちを導くための手だてなのだと、彼は語ります。そして続けます。

「我々は負債の他何物も持っていなかった。その時どんな気がしたかを、我々は覚えているだろうか。我々は無力で、我々の前には当然の罰があるだけであった。神の前に気力を失って跪き、『主よ、どうぞお待ちください』と祈った。そして、あの悪いしもべの場合の様に、饒舌に『全部お返しして償います』と豪語した。決して返せないのを良く知りながら。その時、突然、神の御顔は怒りではなく、我々への大いなる悲しみと痛みの様相を帯びて来た。そして、神は我々の全ての負債を免じ給い、我々は赦された。我々は自由になり、不安は消え、我々は再び喜びを取り戻し、神の御顔を仰いで感謝する事が出来たのである。それなのに、我々はなんと忘れっぽい事であろうか。『さあ、行って我々に小さな不正を働いた奴を捕まえて、「お前の犯した罪を償え。それはどうしても赦せないのだ」と言おう。』他人が我々にした事は、私が神に対してやった事に比べたら全くなんでも無い、と我々はむしろ言うべきであるのを一体知らないのであろうか。他人に罪ありと言って良いなどと、誰が我々に教えたのであろうか。」ここで彼は主人がしもべを牢役人に引き渡す箇所を引用します。そしてその後に続けます。

「今や恵みは消え失せた。今や昔の罪が皆、新たに持ち出される。今や怒りが我々を襲ってくる。我々が恵みを軽んじたので、我々は失われた者らとなっている。」大変厳しい言葉です。しかし彼は、この断罪の宣告で説教を終わりにしません。この神様の厳しさの意味を次の様に説明しています。「ここで教えられている事の全体は、『悔い改めて、あなたの上に注がれている神の憐れみを認識せよ。そうする時にのみ、あなたは赦す事が出来る』ということであろう。」 

問題は「どうしたら、我々は互いに罪を赦す様になるのであろうか」ということです。彼は、誰かに赦されるという経験をした人は「いつか復讐してやろう」という思いを乗り越える事が出来る、と言います。

「神の名によって、また祈りにおいて、自分の罪が赦されるのを経験した人にとっては、裁いて恨みを晴らそうという願いは消える。そのような人は、兄弟の困窮を共に担い、限りなく仕え、助け、赦そうとする。そのような人は、罪を犯した兄弟をもはや憎む事は出来ず、かえって彼をますます愛し、全てを赦す。」

最後に彼は一つの祈りをもって説教を終えています。この祈りはまた、私たちの祈りでもあると思います。「主よ、我らの神よ、私たちが限りなく憐れみを行うために、私たちにあなたの憐れみを経験させてください。アーメン。」

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