1月11日(金)放送 |
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主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(マタイ福音書2章13〜23節) ボンヘッファーはこう述べています。「幼子イエスはその両親と一緒に逃げていかねばならない。神は幼子イエスをベツレヘムでもヘロデから守ることができたのではないであろうか。確かにそうできたであろう。しかし神はおよそどのようなことを欲することができ、また成すことができるかといったことを我々は問うべきではないのであって、我々の問うべきことは、神は実際にどのようなことを欲してい給うかということである。神はイエスがエジプトへ逃げることを欲し給う。」 神様のやり方に、「他にやりようもあったんじゃないだろうか」なんて、不遜にも人間の側から疑問を抱くということをよく致しますけど、それは意味がないことだとボンヘッファーは言うんですね。イエスは事実、エジプトへ逃げていきました。生まれるや否や、いわば難民になったんですね。そしてそれが神の意思であったと言うんです。それはどういうことでしょうか。彼は次のように語っています。「イエスはエジプトで、その民(イスラエル民族)がかつて奴隷状態にあって苦しい生活をしなければならなかった場所で、生活した。彼はその民の歴史を自分自身の生活において生き抜き給う。エジプトでイスラエルは危急に悩んだ。そのエジプトでイエスの危急は始まった。しかしエジプトから神はその民を約束の地に導き給うた。そしてエジプトから神は御子をイスラエルの地に呼び返し給うた。エジプトへの避難は、盲目な運命による不慮の災難ではなく、神の約束と成就である。エジプトにおいてイエスは、その民、我々すべての苦しみと喜びとを完全に共にする者となり給うた。エジプトにおいて神は、異境にある我々と共になり給い、彼と共に我々も、異境より神の地へと連れ出される。」 かつてイスラエル民族がエジプトで奴隷として苦しめられていた。そのことを念頭に置いています。ここでボンヘッファーが言っていることはこういうことなんです。苦しんでいる人たちのところにイエスは行ったのだ。いや、今でもそうだ。どん底の苦しみを味わっている人たちのところにイエスはいらっしゃるのだ。そしてそのことを神様が欲し給うたのだ。これは、苦しみの中にあるすべての人々、昔も今も変わりなく、世界中の至る所で嘆きの声を上げているすべての人々に向けられている言葉だと私は思います。 ただその時に、イエスご自身は殺されませんでしたけれども、その代わりにたくさんの子どもたちが殺されました。その子どもたちについてボンヘッファーは「最初の殉教者、最初の血の証人」と言うんです。彼らは殺されてしまったけれども、実はキリストと共に生きていると言うんです。「すべての迫害は、キリスト抹殺を願う。しかしキリストにどんな害をも与えることはできない。キリストは生きてい給い、キリスト共に、あらゆる時代の血の証人たちも生きるのである。」「イエス・キリストの血の証人たちを悲しむ叫びが沸き起こる。そしてそれは世の終わりまで、もはや止むことはないであろう。それは神を離れた、キリストに敵する世界を悲しむ叫びであり、罪なき者らの流す血を悲しみ、そのためにイエス・キリストご自身が苦しみ給うた、彼ら自身の負い目と罪とを悲しむ叫びである。しかしこの何の慰めもない叫びのただ中に、イエス・キリストは生きてい給い、我々が彼と共に苦しむならば、我々も彼と共に生きるであろうという大いなる慰めがある。」 ボンヘッファーはこの説教の結びに向かって、このような出来事があったにもかかわらず、イエスは神の約束のとおりにナザレに行き、愛の業を始める、神はこのようにして歴史を支配していらっしゃると言います。そのナザレは、貧しくて、皆から軽んじられているところとして有名でした。ここにも神の意思が現れていると言うんです。「ヨセフにとっても全世界にとっても極めて理解の困難な貧しきナザレへの道において、今一度、全世界を救う神の道が成就するのである。まことにひどい貧困と隠蔽と卑賤の生を彼は送り給わねばならない。すべての人の悲惨を負うて、その救い主となりうるために、彼は見栄えのしない、侮られた者の生を共にし給わねばならないのだ。」 この説教は次のような言葉で結ばれています。「我々がこの物語から学んだのは、神が幼子イエスにおいて三つの偉大な約束を成就し給うたということである。すなわちイエスは神の民の歴史をご自身の体で経験し給うこと。イエスは彼に属する人間に喜びだけではなく、彼のために苦しみ死ぬことをも給うこと。イエスはすべての人の助け主となるために隠蔽と卑賤との中で生き給うたこと。この三つである。しかしこれらはすべて、神の約束に従って起こるのである。それはこの世を救う神の御旨の成就である。」「多くの人間的な計画や失敗、多くの敵対関係や危急によって我々の道は決められていくことであろう。しかし我々がイエスの傍らに留まり、彼と共に歩む限りは、神が欲し、約束し給うたこと以外の何事も我々の上にも起こりはしないことを確信して良いのだ。それがイエスと共に生きていかれる生の慰めであって、そのような生に対してもまた、主の語り給うた事が『成就した』と言われるに相違ない。アーメン。」 |
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