キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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 2007年10月9日放送

「日本人」としての魂のゆくえ

教会の勉強会で質問が出たんです。「死んだら私はどこに行くんですか?」「天国ってどこですか?」

私たちは死んだらどうなるんだろうか。当たり前のように考えているかもしれないけど、改めて私たちの魂のゆくえをきちんと考えてみたいなと思って。

教会で葬儀をしますよね。そのときに、ご遺体に向かってお祈りをされたり、お写真に向かって話しかけたり、教会に普段来ていらっしゃる方でもごく自然にそういう所作が生まれてくるんです。それは一体なんだろうと思うんですね。それは、日本人としての文化の中で、日本人である私たちの魂が何かを求めているということの一つの現れかもしれない。だとすると、「それはダメだ」って言ってしまったら、「私の求めはどうなるの?」って取り残されちゃいはしないだろうか。私たちの魂の求めって何か、そしてそれに対してキリスト教の信仰はこういう形で答えていきます、あるいはそういうあなたにキリスト教の信仰はこういうふうに問いかけます、そういうやり取りが具体的に起きないと、日本人である私たちとキリスト教の信仰がどこまで行っても平行線になっちゃうと思うんです。そのことは、私たちが自分たちの信仰を本当に私たち自身のものとしていくために必要なプロセスだと思うんですね。

イエス様も、二千年前のユダヤの社会、宗教、文化の中で語られたこと、それは確かに旧約からの信仰の継続の中にあるけれど、それに対して「そうじゃない」というはっきりとした御言葉でもあったと思うんですよね。そういう中で神様と関係を結んでいくということはどういうことなんだろうかって、たぶんあの時代のユダヤの人たちも考えざるを得なかったと思います。そしてパウロがヘレニズムの文化の中でイエス様のことを伝えたとき、そこでどういうふうにそれを受け取るのか、格闘があったに違いないんですよね。また、初代の教父たちが当時のギリシャの哲学文化と対面して、それに影響され、あえてそれを使いながらでも、キリスト教信仰を言い表す。それによってまったく違う文化の人たちがキリスト教信仰を受け取っていったに違いないと思うんです。

日本人も、クリスチャンになったけど、お墓はお寺にありますとか、家の中に仏壇がありますとか、そういう文化の中に生活している。それとどういうふうに折り合いを付けていったらいいかっていうのは大きな課題ですよね。私もよく尋ねられたんですけど、「お仏壇を大事にしている家庭にお嫁に来たんです。嫁としてそのことをちゃんと務め上げなければ…。自分はお仏壇にご飯を供えるということをやっています。それはどうでしょうか?」私はね、「ぜひそうしてください」と申し上げるんです。「私はクリスチャンだからできない!」っていうことじゃなくて、他の信仰を持っている人たち、そこでの伝統に敬意を持って、そこで共に生きていくときに、私たちはできる限りそのことに仕えていって良いのだと思うんですね。そうした一つ一つの務めの中でも、お仏壇が前にあるかもしれないけれど、自分はそれを通して神様とのつながりを祈っていくということをして良いと思うんです。そういうことを、「これでいいんだろうか」「一体どういうことなんだろう」って、信仰の道筋の中で考えていくということを大事にしていきたいなと思っています。そこで共に生きていくことが、まるごと神様によってどういうふうに受けとめられていくのか、そのことをキリストに出会った人たちがどういうふうに証しをしていくかっていうことは大事なことだと思います。

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