2008年1月15日放送 |
私の名前を呼ぶ神 |
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石居 自分の最期の時に、平忠度は花の下に身を寄せていきます。ここで彼が慰めを本当に得るなら、日本人の死生観ということで「やっぱり自然に戻って行くのだな」という思いになります。けれども、この忠度を世阿弥が能にするんですが、その中で、彼が亡霊となって現れて、歌集に自分の名前をなんとか残して欲しいと願うんですね。 もしですよ、歌人であり武士であった忠度が、桜の美しい所にたどり着いて、そこに自分の慰めを求め、それを詠って最期を遂げたら、もうそれで本当は慰められたはずじゃなかったのか。ところがそうじゃないということを、世阿弥は見ている。つまり、「本音のところはどうなのよ」といった時に、私たちは自然のもとに帰っていくという事で本当に慰められているのか、いやいや…。 吉崎 無名ではいられないんですね。 石居 そう。自分が生きたという事、そのことをなんとか残したい、報われたい、という思いですね。それが私たちの正直な思いかもしれない。自然の流れの中にかき消えていくという思いは私たちの中にある。でも同時に、それで本当に報われるのかな、それでは収まらないっていう思いが実は私たちの底にはあるのかもしれない。そうした時に、私たちはきれいごとでは済まないんですよ。 信仰の生涯もきれいごとでは済まない。「神様に委ねます」って言える自分もあるけれど、収まり切らないものがたくさん詰まっている。言葉にならないものがたくさんある。それが私たちの実際の姿です。私もいろいろな方の最期に時間を共にさせていただいた事が何回もあります。けれどね…。ポロッと、「でもね、先生。どうしてかな…」とかね…。言葉にならない思い…。でもそれは私たちの素直なありようなんですね。でもそういう私たちを丸ごと全部、神様が掴まえてくださる、赦してくださる。 考えてみれば、私たちが信仰深いって言ったって、そんなもの何でも無いようなものです。神様に付いていきたいと思っていたって、どこか他所へ行っちゃうのが私たちの姿ですよね。その私たちを捉えてくださるイエス様はどういう方であったか。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(ヨハネ10章1〜3節)羊飼いは私たち一人ひとりの名前を呼んで、私たちを導いてくださる。 吉崎 無名じゃないんですね。 石居 そうなんですよ。醜い部分を含めて、私たちが誰であるかしっかり知っていてくださって、一人ひとりの名を呼んで導いてくださるお方。こういう私たちが丸ごとイエス様によって導かれて行くんだな、というのは何と大きな慰めだろうと思うんです。 |