キリスト教放送局FEBC「わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った」旧約聖書イザヤ書44章22節(聖画:サン・ダミアーノの十字架)
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2007年5月20日放送

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説教題「自分の家に帰りなさい」

東野 尚志牧師

一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。

これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。…人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。(マルコ福音書5章1〜20節)

主イエスと弟子たちはガリラヤの湖を渡って向こう岸に着かれました。そこはゲラサ人の地方と呼ばれている、異邦人の土地であります。主イエスはこの地域に長く留まるおつもりはなかったようです。すぐにまたガリラヤ地方に戻っていかれたのです。主イエスはなぜとんぼ返りをなさったのか。ゲラサの地で大事な勤めを終えられたからです。主イエスはただ一人の人と出会うために、嵐を超えて異邦人の地へ入っていかれたのです。

主イエスが船から上がられたとき、すぐに一人の人が近づいてきました。「汚れた霊に取りつかれた人」(2節)そのように紹介されています。この人は墓場を住まいとしていました。それは、生きながら死に渡された姿と言ってよいかもしれません。家族でさえも、彼は死んだものと見なすしかなかったのだと思います。

聖書が悪霊について語るのを、非科学的な神話のように感じる人があるかもしれません。けれども今、私たちが生きているこの時代にも、得体の知れない力に支配されて、自分で自分をコントロールすることができない、そういうことが起こっているのではないでしょうか。人間の存在自体が崩れてしまっている、そう言わなければならないのではないかと思います。聖書はそれを悪霊の支配と呼ぶのです。汚れた霊にとりつかれた男の悲惨な有り様は、私たちの世界が抱えている深い闇を象徴的に描いている、そう言ってもよいのではないかと思います。

ある人が人間のことを「矛盾の中にある存在」と呼びました。まさにそのとおりだと思います。神に造られた者が神なしに生きようとするとき、矛盾を抱え込むのです。交わりの中に生きる者として造られながら、自らその交わりを壊してしまう。そして交わりを壊した孤独の中で、自分自身を傷つける。自分でも自分を受け入れることができずに、自分で自分を罰しようとするのです。ゲラサの人が石で自分を打ちたたいている姿です。この人は足かせを砕き、鎖を引きちぎり、体は自由になったはずです。しかし、人を避けて、墓場や山を行き巡り、自分を傷つけたりしながら、行き場のない怒りを発散するしかない。自分ではどうすることもできずに、自分自身を持て余しているのです。自分で自分を救えないのです。

この人は主イエスが来られたのを遠くから見ると、「走り寄ってひれ伏し」(6節)ました。どんなに切実に救いを待ち望んでいたかが、この動作に現れているように思います。けれどもその口から出てきた言葉は、その振る舞いとは正反対でありました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)ここにも矛盾が現れています。救われたいと願いながら、しかしいざとなると、それまで慣れ親しんでいる不信仰の側にしがみついてしまう。愛されたいと思いながら、人の悪口ばかり言う人がいます。本当は生きていたいのに、死ぬことばかり考えてしまう人もいます。それが悪霊の支配なのです。

けれども主イエスは、悪霊が言わせている言葉ではなく、神ご自身にかたどって造られた人間の魂の叫びを聞き取っていてくださるのです。そしてお命じになります。「汚れた霊、この人から出て行け」(7節)。

主イエスと男とのやり取りを読んでおりましてなんとなく混乱してくるのは、主イエスと話している相手がいつの間にか、悪霊に取りつかれた男から悪霊自身に換わったり、またその逆になったりしているからです。汚れた霊はそれほどまでにこの人に取りついて一体になっているのです。それがまさに矛盾した姿として現れているのかもしれません。一方では主イエスに救っていただきたいと願いながら、他方では関わらないで欲しいと願う。悪霊の支配の下に置かれていると、私たちはいつの間にか自分の中に二つの自分を抱えるようになります。

一方では御心に従って生きることを願いながら、他方ではなおも罪の生活を好み、そこに留まろうとする自分がいる。使徒パウロでさえ深い嘆きと共に告白しました。
「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ローマ7章15、18節)そしてついに叫ぶように言うのです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(24節)

主イエスはこの魂の叫びを聞き取ってくださるのです。主イエスは言われました。「汚れた霊、この人から出て行け」(8節)。主イエスはあくまでもこの人の側に立って、汚れた霊と立ち向かってくださるのです。町の人たちはこの人と汚れた霊とを一緒くたにして、厄介な人としか見なかったかもしれません。けれども主イエスは、この人と汚れた霊を分けてご覧になります。いったい何者がこの人を支配しているのか突き止めようとなさるのです。「名は何というのか」(9節)。

この人に取りついていた悪霊どもは豚の中に入ることを主イエスに願い出て、主イエスはそれをお許しになりました。二千匹ほどの豚が溺れ死んだというのです。この一人の人の霊に取りついていた悪霊は、なんと二千匹もの豚を滅ぼすほどの力を持っていたのです。

人前で落ち着いて座っているなど考えられなかった、その人が今、主イエスの足下に、正気になって座っていたのです。驚くべき救いの出来事。その救いを成し遂げられた救い主の前にいる。けれども人々は主イエスをほめたたえるどころか、その地方から出ていってもらいたいと言い出したのです。それは、あの汚れた霊が言ったことと同じです。「わたしにかまわないでくれ」と。正気であるはずの人たちも主イエスを拒むのです。主イエスと関わらない限り、主イエスが関わってくださらない限り、そこには神ならざるものの支配が続くのです。

パウロは言いました。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」(コロサイ1章13、14節)一人の人が悪霊の支配から解放され、主イエスの足下に座るようになった。そのために二千匹の豚の命が犠牲になりました。それは一つのしるしだと思います。私たちすべてを闇の力から救い出すために、そこで支払われた贖い代、それは豚二千匹の命どころではない、いと高き神の子イエス・キリストの尊い命が支払われたのです。主イエスは、私たちを悪霊の支配から救い出すために、ご自身の命を犠牲として十字架に赴かれました。人々から見捨てられ、神からも見捨てられて、死の力が支配する墓の中へと赴かれたのです。そしてすべての捕らわれた者たちを解き放ち、御国の民とする救いの道を切り開いてくださいました。

私たちは自分自身の中に矛盾した思いを抱えているかもしれません。悪魔のささやきに対して実に無力であり、惨めな姿をさらしてしまうかもしれません。けれども私たちは、あるがままで、不信仰な言葉が口をついて出てくるままに、主イエスのもとに走り寄って、その足下にひれ伏すことができるのです。主イエスが、私たちのうちに巣くっている悪の力に打ち勝っていてくださるからです。そして汚れた霊に替えて、ご自身の霊を住まわせてくださるからです。私たちのうちに主ご自身が宿ってくださる。神にかたどって造られた、交わりに生きる者としての本当の自分を、神の子としての喜ばしい姿を、主が私たちに取り戻させてくださるのです。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)これが最も困難な課題であるかもしれません。けれどもその中心にあるのは、自分が何かをするということではありません。主がどんなに憐れんでくださったか、主の御業を語ることです。伝道の原点はここにあると思います。

私たちも礼拝を終えて、自分の家に帰されます。そこには共に生きる者たちが待っています。難しい顔をして、救いとは何か、キリスト教とは何かを説明する必要はありません。主が何をしてくださったか、主がどんなに憐れんでくださったか、救われた喜びに生きること、それが何よりも力強い伝道になります。私たちは、主に贖われた者として、悪霊の支配のもとから神様の支配のもとに移された者、神の子とされた者たちとして、私たちが愛し、仕えるべき隣人のもとへと遣わされていくのです。主がお命じになります。それゆえに、主が道を切り開いていてくださいます。私たちが主にお従いしていくのではなくて、主ご自身が私たちのうちに宿って、私たちと共に、私たちの愛する者たちを訪れてくださるのです。そこにこそ、神の子たちの生きるべき場所が備えられているのです。
 

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