2007年9月30日放送 | |
日本基督教団 松山番町教会 | |
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彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。(マルコ福音書12章28〜34節) 一人の律法学者がイエス様に質問致しました。「神様の掟は聖書の中にいっぱい記されている。しかし、軸になる掟というものがどこかにあるはずではないでしょうか。」そういう質問であります。 この質問に対してイエス・キリストのお答えは、神を愛すること、そして隣人を自分のように愛すること。それが最も重要な掟なのだと言われたのであります。つまり人間の命というものは、自分一個で生きることはできないのだということがここでは言われているのだと思います。神との関わりの中で、そして人との関わりの中で、私たちの命は生きることができる。 神との関係、そして人との関係、これは別々のものではありません。神は愛するけれども、人は愛せない、そういうことはあり得ない。神を愛するということと人を愛するということとはつながっているのです。 このイエス・キリストの答えに対して律法学者は同意をし、感動しているのです。彼はこう言いました。「神を愛すること、そして隣人を愛することは、焼き尽くす献げ物よりも優れています。」これは律法について深く考えた人の答えです。彼はここで、献げ物というものを否定しているわけではありません。献げ物の背後に愛がなければならない。そのことを彼は理解していました。 神の掟を守るということは、規則を守るように厳密にその一つ一つを実行する、そんなことが求められているのではないのであります。当時のユダヤ人たちは、掟を厳密に守るために、一挙手一投足どうすれば正しい生活をすることができるか一生懸命考えていたのです。たとえば、食事の前に手を洗う。どこまで洗えばいいか。十分に汚れを落とすために脇のところまで洗わなければならないのではないか。そういうことが実際に行われていたのです。しかし、神の掟を守るということはそういうことでしょうか。 この律法学者も恐らくそのことを考えていたと思います。神様の掟をどこまで厳密に守っていくかが問題ではなくて、そこに愛があるかどうか、それが問題ではないか。 律法学者は「適切な答えをした」(34節)と書かれています。そしてイエス・キリストはこの律法学者に対して「『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。」「正しい答えだ。あなたは神の国に入れる」とは言われませんでした。「遠くない」と。奥歯に物の挟まったような言い方であります。 正しい答えなんです。しかしどうやって私たちは神を愛するんでしょうか。「神を愛さなければならない」と言われて、それで神を愛することができるのでしょうか。それが問題なのです。答えはわかっているのです。しかし「神の国から遠くない。」神の国には届いていない。神を愛するためにもっと努力をしなければならないのでしょうか。歯を食いしばって必死になって努力して神を愛する。そんなことはできないのです。 ここで語っておられるイエス・キリストは、苦難と十字架に向かわれるイエス・キリスト。イエス・キリストは私たちの罪をその身に引き受けて、この罪人を赦すために苦難の道を歩まれる。この裂かれるべき私たちの肉に代わって、ご自分の肉を裂かれることによって、私たちを赦される。 神の国は、私たちが神を愛そうと努力してようやく辿り着けるような、そんなもんじゃありません。そんなことでは辿りつけはしないのです。私たちが自分の愛によって神の国に辿り着ける、そんなことはありません。神の愛を受けて、神の愛に打たれて生きるときに、私たちは既に神の国に生きはじめているのです。私たちのこの人生は、生きなければならないから仕方なしに、いろんな課題を背負いながら生きていくんじゃないのです。神の愛があるから、生きているのです。私たちを追い求めてやまない救い主の愛があるから、私たちは自分という人間を投げ出さないのです。こんな自分でも追いかけていてくださる十字架の愛があるから、私たちは自分を投げ出すことができない。そうやって私たちが神の愛に応えて生きはじめるときに、私たちは既に神の国に生きはじめているのです。そうやって私たちは今既にここで、神の国の歩みをはじめているのです。神の愛を受け取りながら、そしてそれに応えながら生きていく、そのことの中に、私たちの証しがあります。私たちのこの命には、私たちには計り知ることのできない愛が込められているのです。 | |
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