2007年10月21日放送 | |
日本基督教団 藤沢北教会 | |
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「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(マタイ福音書6章1〜6節) 私は幼い頃、何か悪さをしたのがバレたとき、母親からよく言われました。「お天道様は見ているんだからね!」人は悪いことをするときには、何か超越的な存在が自分を見ているという意識があります。しかしイエス様がここでおっしゃっていることは、人が悪事を働くときのことではなくて、むしろ善い行いをするときのことなんです。そのとき「あなたの施しを人目につかせないように」と言われるのです。人は悪いことをするときには神様の目を気にするものですけれども、善いことをするときにはなぜか神の目をまったく気にしなくなるんですね。そして人の目ばかりが気になって仕方なくなります。でもイエス様は「あなたの善行を人から隠しなさい」と言われるのです。 人に見てほしいとか、自分を認めてほしいという思いは誰にでもあることでしょう。そして自分の行ったことに対して何か評価を望むこと自体は決して悪いことではないと思います。けれども、何か善い行いを人から評価され、それで一体どうなるのか。 イエス様はこうおっしゃるのです。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」つまり、それでもう終わっているということです。ところが私たちはなぜかそこで終わりにできないのです。何か評価を得ても満足できない。いつも何かが足りないような気がして、もっと認めてほしくなります。どうしても他人が認めてくれないとなれば、自分で自分をほめてやるんです。「私はこれだけのことをしたんだ」と自分に言い聞かせます。イエス様がおっしゃった「右の手のすることを左の手に知らせ」るというのはそういうことなのじゃないかと思うのです。自分の内に引きこもって、自分だけで終わってしまうような、独りぼっちの取り引きのようなものかもしれません。それは何か空しいことなのではないでしょうか。何かが決定的に欠けているのです。愛が欠けているのです。いくら人の目を自分に向けさせることができたとしても、私たちは愛の欠けた人の目だけでは安心することができません。愛の欠けたほめ言葉だけでは、いくらそれを得ても満ち足りることはないのです。そのような人からの報いを求めてきゅうきゅうとする、取り引きのような生き方から、イエス様は私たちに勧めてくださっているのだと思うのです。「隠れたところに撤退してみなさい。」イエス様の「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」というこのお言葉は、私たちへの招きではないでしょうか。「隠れたところに退いてみなさい。あなた方のその破れて汚れて疲れたところ、人の目から隠したくなるようなあなたの隠れたところに、実は、あなたの父がおられるのです」と、イエス様はおっしゃっているのではないでしょうか。 私たちは自分で隠れようとしなくても、隠されたものになってしまうことがあります。気の置けない親しい人と会話をしていても、どうしても伝えきれない思いがどこかに残ってしまう、そういうことがあると思います。あるいは自分を思いっきりさらけ出した楽しい交わりの後で、ふと「私は独りだ」ということが強烈に実感させられてしまうということがあると思います。人に自分を伝えようとしていくら言葉を尽くしても、誤解されたままという経験もあります。そうやって隠れたところに置き去りにされてしまうような、そういう自分を発見することがあります。私たちが自ら隠れたところに行かなくても、隠れたところに追いやられるという経験です。でもそこが実は、隠れたところにおられるあなたの父に行き着くチャンスではないかと思います。隠れたところにおられるあなたの父がそこにおられるのです。 私もかつて会社に勤めておりましたとき、大きな失敗をいたしまして、また人からの誤解をも受けまして、一人隠されたような思いでいたことがあります。そのときには自分でも本当の自分がわからなくなったようで、途方に暮れておりました。ところが、そこが私にとっては、隠れたところにおられる私の父を知る時でありました。父なる神はまさに近くにいてくださることを知りました。私は祈りにもならないつぶやきを父なる神様に対してしていました。「神様、私はご覧のとおりの人間です。自分でも自分がわかりません。何をするのが良いのかもわかりません。神様、憐れんでください。何をすべきか教えてくださいませんか。主よ、こんな私で申し訳なくてお恥ずかしいんですけれども、主の御用に生かしてくださいませんでしょうか。」そのときのつぶやきというか、うめきにも似た祈りの言葉は、神様に聴かれたようです。それで今日の私があると思うのです。隠れたところで弱っていたときは、隠れたところにおられる父なる神との交わりのチャンスでもあったのです。 でも、どうして神様は隠れておられるのでしょうか。 神様に背いたアダムとエバは、神様の目を避けて、木々の間に自分の体を隠しました。神様が隠れておられるというよりは、人間のほうが神様に背を向けて自分自身を隠してしまったのです。だから、罪の中にある私たち人間からすれば、神が隠れておられるように見えるのかもしれません。しかし神様は、その罪ある人間と共にいようとされる、そういう神です。隠れた者、隠された者と共にいようとなさる。神様からも見放された、引き離されたとしか思えないような隠れたところに、しかし実はそこにこそ、私たちの父はおられるのです。なぜでしょうか。それはもう、神は愛だからとしか言いようがないように思われます。 神様の愛は、見てもらおうとする愛ではありませんので、私たちから隠されています。人からほめられようとする愛ではありませんから、気づかれないのです。逆に人から軽んじられ、嘲られ、ついに捨てられます。しかしその隠された愛こそが、実は力を持っているのです。 御子イエス・キリストの十字架に現された愛も、まったく隠された愛でした。そこに神の愛が惜しみなく注がれているということを誰も理解しなかったのです。人間のために神の御子が命を注ぎだしておられるときに、御子は人から見捨てられ、嘲られ、罵られます。キリストの十字架の愛には、神の孤独があるのです。まさに神ご自身が隠されたものとなられました。そのようにしてまで神様は、どこまでも、私たち隠れた人間の傍らに立とうとされるのです。 パウロはこう言いました。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ローマ5章5節)。 なぜ鈍感な私たち人間に神の愛をわかる時が来るのでしょうか。それは聖霊が働いてくださるからなのです。御霊なる神が、神の愛を私たちの内に注いでくださいます。 パウロはまたこのように言うのです。聖霊は私たちのために「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」(8章26節)。聖霊なる神は私たちを圧倒して押し倒すような力をもって語られるのではなくて、むしろ私たち人間の高ぶった思いの下で、うめきながら耐えるように語りかけ、働いてくださっています。そして私たちが自らうめくときに、聖霊なる神もうめいてくださっているということを、そこで知るのです。 隠れたところにおられる私たちの父、その愛を隠れたところで発見する、これはなんと喜ばしい経験でしょうか。イエス様が「アッバ父よ」と祈られた、あの祈りの交わりの中に、私たちも招かれているのです。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」御子と共にこの父に、「父よ」と私たちも呼びかけたいと思います。 | |
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