2007年11月14日放送(2007年5月23日の再放送) | |
第33回「心ひらかれ、命ひらかれ」 | |
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人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。」(マルコ福音書七章三二〜三五節) 私が昔通っていた教会では、クリスマスに、教会から歩いて一時間くらいの範囲を練り歩いて讃美歌を歌いました。そのとき、今まで知らなかった教会を見つけたんです。その教会の名前が「エパタ教会」というのです。三四節でイエス様が「エッファタ」とおっしゃった、その言葉のことです。その教会は耳が聞こえない人々が集う教会でした。私は驚きました。ただ耳の聞こえない人が集うから、ここにちなんで「エパタ」ということではない意味合いを、私なりに想像しました。 この物語は、耳の聞こえない人が聞こえるようになった、そういう奇跡の話です。エパタ教会の人々は、イエス様を信じた後も耳が聞こえないままなのです。イエス様のお働きの主眼が耳を聞こえるようにすることであるとするならば、聖書に登場する人は自分たちとは違うなということになります。けれどもエパタ教会では自らの群れを「エパタ」と呼び続けるのです。これは、その教会に集う人々が、自分たちもイエス様によって〈エパタ―開かれた〉という経験をしたからこそ、それを教会の名前にしたんではないだろうか、そのように想像したんです。 イエス様はこの耳が聞こえず口のきけない人を、一人、群衆の中から連れ出されたことが書いてあります。この人と一対一で向き合われたのです。そして「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。」 私はここを読みながら、創世記の天地創造の場面を思い出しました。神様が土の塵から人をお造りになったときに、そこにご自分の息を吹き入れられたのです。するとその人が「生きる者となった」(二章七節)と書いてあります。聖書は人間の存在をそのように表現しました。神様の息を吹き入れられると、人は生きる者となる。 イエス様がここで、天を仰いで深く息を吸い、そしてその息を吐きながらこの人に「開け」と言われた。イエス様がここでご覧になっているのは、ただ耳が聞こえない、口がきけない姿ではなくて、その存在そのものが閉ざされている人の姿をご覧になったんじゃないかと思うのです。そしてイエス様はそこに向かって「開け」とおっしゃったのではないでしょうか。 なぜ自分が生きているかわからない、自分を閉ざしてしまう、心の扉を閉め、目を閉じ、耳を塞いで、うずくまるようにして時を過ごす、人間にはそういう時があります。 イエス様はこの人に向かって「開け」とおっしゃったのです。そのとき何が起こったのか。イエス様と一対一で向き合って、イエス様の「開け」というお言葉をいただいたときに、この人は自分の人生が神様に向かってパッと開かれる経験をしたんじゃないか。そんなふうに思いました。神様があなたと共にいてくださる。その事実に向かって心が開かれたのです。だからこそ、私たちは勇気を持って生きることができるのです。 | |
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