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恵子の郵便ポスト 吉崎恵子
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ひとりを捜す神 広田叔弘氏
信仰のないわたしを 横野朝彦氏

会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。(マルコ福音書5章22〜42節)

 42節に「
少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである」とあります。子どもは一歳にもなれば歩き出しますから、「十二歳になっていた」などとわざわざ断らなくても、病気が治ったら起き上がって歩き出すのは当たり前じゃないかなと思うんです。しかし、この子は生まれて十二年目に幼い命を失いそうになって助けられた。ところが、この女の子が生まれたときから十二年間、ずっと病に苦しみながら生きてきた人が登場している。当然この二つの出来事は対比されています。

 ヤイロは責任ある立場の人でした。そのヤイロの娘が死にそうになっているのですから、その場にいた人たちは皆、同情の気持ちをもってヤイロを見たんじゃないでしょうか。「かわいそうだな」、そういう気持ちがその場にみなぎっていたに違いありません。これは皆が注目している出来事なんです。そしてその陰にあって、誰も目にも留めないような女性の姿を、聖書はその出来事の真ん中に書き記したのです。そこに、この聖書の場面の伝えたい、大切な事柄があるなと思いました。この十二年間患っていた女性の姿がこのように書いてあるということに、私は深い慰めを感じたんです。

 女性は十二年の間に、体も心も暮らしも疲れ切ってしまっていることが想像されます。全財産を使い果たしても、治らない、ますます悪くなる。誰も彼女の力になることができなかったんです。今、幼い命は生きるか死ぬかという重大な時でした。だから皆も注目しました。この女性の病はそれに比べれば、誰もそんなに注目はしなかったようです。人間の悩みや苦しみというのはしばしばそういうものじゃないかと思います。私たちの悩みや苦しみは、皆がいつもそれに気づいて同情してくれるほど人前に明らかになっているものではありません。幼い十二歳の少女の命の輝きに比べたら、一見それにはとてもかなわないような私たちの営みがあるだけかもしれません。全力でイエス様に訴える父のような存在が、誰にでもいつでもいるというわけでもありません。彼女は必死の思いでイエス様に触れました。でも、そんなことは本人にしかわかりません。誰も、この女性の苦しみを特別な苦しみだと見る人はいません。それはわからないからやむをえないのです。

 周りの人たちが皆でヤイロの娘の生き死にを心配していました。でも今、この女性は、一人でこれを背負うしかありません。
この女性のような状況というのはありがちなことかもしれません。誰にでもそれぞれ苦しみや悩みがあります。そして自分の苦しみや悩みだけは特別だなどということは、客観的には言えませんね。自分にとっては深い悩みであっても、皆もそれぞれ悩みは持っているんだから、注目されなかったとしてもそれを責めるわけにはいきません。それが人間の姿じゃないかと思います。そのような人が、今、主イエスに出会ったのです。

 イエス様の服に触れたときに、この女性は体が癒されたことを感じます。イエス様も自分の体から力が出ていったことを感じます。ここでこの二人の感じ方がつながったのです。この女性は、自分の身に起こったことを知って恐ろしくなったとあります。でもこの人は、イエス様に触れば治るんじゃないかと期待していました。思ったとおりに治ったことを喜ぶのかと思ったら、それを知って恐ろしくなったと言うのです。彼女は恐らく、自分が思っていたのとは違う、自分の思いを超えたことをここで経験したのだと思います。彼女は自分一人で、誰にも気づかれないように人ごみに紛れて、そっとイエス様に触れば治るんじゃないかと思った。それが彼女の願っていたことです。そうしたら、ただ治ったということじゃなかったのです。イエス様が立ち止まられて、「だれだ」とおっしゃった。イエス様が、この自分に気づいてくださったのです。自分一人の営みとして、病気が治ったらいいなぁということだったのが、そうじゃなかった。自分と神様との間がピッとつながったのです。

 「
あなたの信仰があなたを救った」(34節)とイエス様はおっしゃいました。それは、「あなた一人の悪戦苦闘ではない。あなたと神様との間で新しいことが始まった。」そういうイエス様の宣言ではないかと思います。大勢の人々の中で埋もれてしまうようにして生きていた女性が、イエス様に触れた。その時、自分は決して神様のもとで埋もれてしまっている存在じゃなかったんだと知ったのです。神様はこの私を見つけてくださった。神様と自分の人生とはつながっている。そのことをこの人はここで知り、それによって救いを経験したのです。そういう神様が共にいてくださる。そこに、私たちの救いがあります。

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2006年8月30日放送
第26回
「人の罪の奥深くに踏み込んでくださる神」

(マルコ6章14〜29節)