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恵子の郵便ポスト 吉崎恵子
主イエス・キリスト 岩島忠彦氏
主よ、あなたが歩かれる道ならば 井幡清志氏
ひとりを捜す神 広田叔弘氏
信仰のないわたしを 横野朝彦氏

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊“が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。それから、”霊“はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1章9〜15節)

 私たちが神様を信じる時、普通、よく聖書を読んで、イエス様の教えをちゃんと知り、十字架と復活の出来事を理解してから信じる。このように考えるんじゃないでしょうか。しかしこのイエス様のお言葉を聞くと、そういう考え方とは驚くほどに違います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。イエス様は、いろいろな教えやお働き、さらには十字架と復活という出来事がまだ成されていない先に、「信じなさい」とおっしゃったんです。

 何もわからずに信じるというのが信仰本来の姿に近いんじゃないかと思います。「それじゃあ何を信じていいかわからないじゃないか」と反論される方も当然出てくるでしょう。イエス様は「信じなさい」とおっしゃるときに、「神の国が来た」と、ただそのことだけをおっしゃいました。ここに私たちが何を信じるかということが実ははっきりと言われているのではないでしょうか。

 イエス様がお働きをはじめられたときに、まず洗礼を受けられました。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(4節)罪人だから、洗礼を受けよ、悔い改めよとヨハネは言ったんです。イエス様は罪のない方でありますね。ヨハネの洗礼をあえて受ける必要などないはずなんです。ではもしイエス様が洗礼をお受けにならなかったとするなら、どういうことを意味するでしょう。人間とイエス様とは違うんだ。こういうことになるんじゃないでしょうか。イエス様は私たちを救ってくださる救い主、私たちは罪人。自分とイエス様とは別だと思うのはむしろ当たり前のことであります。ところが今、イエス様は洗礼を当然のこととしてお受けになった。これは今申しましたことの裏返しです。イエス様と私たちとは別ではなくなるということです。イエス様ご自身が私たちと同じ罪人の一人となってくださった。私たちと同じ者として、神様の前に一緒に立ってくださる。そういうお方としてイエス様はここで歩みを始めてくださった。「あなたとわたしは共に歩む」とイエス様がご自身を定めてくださった。それがこのイエス様の洗礼であります。ここからイエス様の十字架の歩みが定められたと言ってもよいかもしれません。イエス様が十字架にかかる。これは罪人としての歩みをとことんまで歩みきるということでありますね。

 その時に神様の霊が下り、お声が響いて「わたしの心に適う者」とおっしゃったんです。イエス様が洗礼を受けて罪ある者の一人となるということを、神ご自身がお望みになったということではないでしょうか。つまりここで、父なる神とイエス様とが心を一つにして、私たち罪人の生涯に寄り添ってくださることをご決意なさったということです。

 その後イエス様は同じ霊に導かれて荒れ野に送り出されます。かつてイスラエルの民は荒れ野を四十年間さまよい、そこで自分たち人間の現実の姿をいやというほど見せつけられたんですね。私たちは荒れ野をさまようような人生を生きながら、自分の人生に対する誇りや自信を失っていきます。どうかすると自分はダメだとレッテルを自らに貼るんです。これが私たちを神様の愛から離していく。誘惑というのは、神様の愛から私どもを引き離そうとする力であります。神様が造ってくださった自分の命を否定する力です。霊がその荒れ野にイエス様を導き、四十日間留まらせたというのは、イスラエルの民が四十年間荒れ野をさまよった歴史をなぞっている面があります。イエス様は、人が生きなければならない人生の荒れ野に踏み込んでくださって、そこを共に歩んでくださる。それは、私たちの誘惑との戦いをイエス様が共に戦ってくださる、この私の罪との戦いをイエス様がご自分のものとしてくださる、そういうことなんです。

 これがイエス様の洗礼であり、荒れ野への旅であります。これが福音、神の国のはじまりの姿であります。「信じなさい」というのは、「あなたもなんとか信じられるようになりなさい」というのではありません。「信じなさい。わたしが一緒にその信じる歩みをはじめよう」と、イエス様がこの私に伴ってくださる。それをはっきり宣言してくださっているお言葉です。何も知らない、何もできない。でもそれでいい。そこからイエス様と一緒に生涯をはじめる。それが私たちの人生であり、私たちの信仰であります。

 イエス様は「時は満ちた」とおっしゃいました。私が信じる歩みをはじめる時はもう来ている。これからだんだんとそうなるんじゃなくて、もう満ちているとおっしゃいました。イエス様と一緒に、私たちの生涯を新たにはじめようではありませんか。
 

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2006年4月12日放送
第2回「さあ始めよう。わたしと共に」
(マルコ1章9〜15節)