一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1章29〜31節) イエス様が、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめの手を取って起こされた。そうしたら熱が下がった。取りようによってはびっくりするような話です。しかし、熱が出て寝込むなんていうことは誰にでもあることです。イエス様はいわば、それだけのことで寝ているしゅうとめの手を取って起こされたんです。 このしゅうとめが寝ていたように、私たちだって熱を出して寝込むことはある。あるいは熱を出さなくても、何か力が湧いてこないなぁということもあるし、できたら横になって何もしないで過ごしていたいなぁと思うこともあります。何か大きな病気になるということじゃないけれど、今日一日生きていく力が湧かない。そんな誰にでもある一日に、イエス様が来てくださって、私たちの手を取り、この一日を歩むために、起こしてくださるのです。 しゅうとめは熱が下がって起き上がったときに、「一同をもてなした」と書いてあります。「もてなす」というギリシャ語は「仕える」と訳すこともできます。このしゅうとめも、イエス様と出会った後、イエス様に仕える人になっていったということを聖書は記しているんです。ただその仕え方というのは決して特別なことではありませんでした。一同をもてなして食事の世話をした。このことは、この人が毎日やってきたことでありましょう。いつもの生活の中で、今日、イエス様に手を取って起こされて、また同じようにしただけなのです。自分が一人の人間として日々負ってきた務め。それをこの日も果たす。そのための力を、今日この人はイエス様からいただいたのだと思うのです。これがしゅうとめに起こったことでありました。 私たちも日々、その日その日、負っているものを果たすために生きています。イエス様はその私たちの日々の務め、日々の歩みを、今日も進めるために、必要な力を与えてくださる。私たちを立ち上がらせてくださる。私たちの心に、今日を生きる思いを与えてくださる。私たちは、今日という一日、明日という一日、その一日一日を、イエス様の御旨によって押し出されて生きているのですね。そうすると私たちの一日一日、それを生きるということは、本当に恵みなんだということを思い知らされます。 命の土台、命の根本が、イエス様を信じ、イエス様にお従いすることによって新しくなる。けれどもそこに現れてくる具体的な生活は、決して特殊なことではないんです。今日のこの日を、一人の人間として、自分の置かれたところで生きる。自分が今日、果たすべき務めを果たす。その力を、イエス様からいただいて生きる。そのようにして一日一日を重ねていく。ここに、イエス様を信じて生きる者の幸いがあります。私たちは日々、イエス様によって「さあ、今日も生きよ」と、手を取り、起こされて、生かされている者なんだと思います。その恵みの歩みを、今日もまた、明日もまた、歩んでまいりたい、生かされてまいりたいと思います。 | |
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2006年5月3日放送
●第5回「今日を、明日を、生きるために」●
(マルコ1章29〜39節)