イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。(マルコ3章1〜6節)
イスラエルの決まりで、安息日には仕事はしてはいけない、病気の治療もしてはいけないことになっていました。だからイエス様のことを良く思っていない人たちは、もしイエス様がこの人を治したら、安息日の戒めを破ったと言って捕らえる口実にしようと考えていたのです。つまり、皆は確かに手の萎えた人を見ているのですけれども、誰もこの人自身のこと、この人の苦しみには目を向けていません。いわばその人の体をスーッと通り抜けてしまうような見方で、皆が注目していたのです。悲しい話だと思います。でも、これは実に人間の現実じゃないかと思いました。ここに人の本性がよく現れているなと思いました。手が萎えている人のことを、気の毒だなぁとは感じるでしょう。でも、その人がどんなにそのことで悩んでいるか、そこまではなかなか見えないものです。私たちは、自分の感覚、自分の思い描く世界の中で生きていて、そこから人のことも見ています。自分の経験から割り出して人に接するということが多いのです。ひょっとしたら自分自身に対しても、自分の魂をしっかりとらえて生きるよりは、そこをスーッと素通りし、深く向き合わないまま生きてしまうこともあるのではないでしょうか。 イエス様は、この手の萎えた人を真ん中に立たせました。これは、神様のお心を示してくださったのではないかと思います。人々は、確かに皆、この人に注目していました。でも誰もこの人のことを自分の心の真ん中に置いてはいません。むしろこの人を一つの道具として、イエス様を訴えてやろうと思っているのです。それは、人の力の無さゆえかもしれません。イエス様は、神様のお心の中ではそうではないとおっしゃっているのです。誰もが見過ごしにしているひとりの人が、なんと神様のお心の真ん中にある。最も大事な人として神様が見ていらっしゃるのです。
イエス様は、人々が「もしこの人を治したら訴えてやろう」と考えているのに、あえて人々の考える安息日の戒めを破られたのです。「安息日が明けてから治しましょう」と言うことだってできるのに、今ここで、人々がつけ狙っているそのとおりに、手を治されたのです。イエス様は、ひとりの人が癒されることを、この人の救いを、どんな大事な戒めよりも優先なさったのだと思います。 しかしそれゆえに、ファリサイ派やヘロデ派の人たちの敵意を強めることになりました。彼らは「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(6節)とあります。イエス様の十字架がここから始まったというような書き方です。文字どおりイエス様は、命をかけて、この人を癒したのです。そこにイエス様のお心があるのだと思います。イエス様はただこの人の病気を治すということだけではない、この業をとおして、「わたしはあなたのために命を捨てる」ということをお示しくださったのです。そのお心で、この人の前に立ってくださったのだと思います。
この人の悩みを、他人はだれもそんなに重大には考えていません。そういう悩みは誰にでもあります。人から見たらそれほどでもない。でも自分の中ではそれがとっても大きな重石になっている。イエス様はそういう一人ひとりが負っている悲しみに目をとめて、そのために命をはってくださるのです。「それほどにわたしはあなたを愛する」と言ってくださるのです。
イエス様は、ファリサイ派やヘロデ派の人たちの、イエス様を死に追いやろうとする敵意すらも包み込んで、ひとりの人を愛されるということではないだろうかと思います。人間の敵意も全部飲み込んで、イエス様は人を愛するために歩まれる。これが、イエス様が愛されるなさり方なのです。ここに本当に大きな慰めがあります。それぞれに様々な重荷を担いながら生きている者であります。しかし主の前に立ち、イエス様が私のために命を捨てられた、この私が神様のお心の真ん中に置かれているのだということを信じながら歩んでまいりたいと思います。 |