イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。(マルコ福音書3章7〜12節) |
●人間の求めの危うさ |
イエス様のところにたくさんの人々が押し寄せてきたという話です。たくさんの人たちが苦しんでいたことがわかります。 私たちの誰の中にも求めがあり、渇きがあります。もちろんいつもそういう意識を持っているわけではないかもしれませんが、何か苦しい出来事にぶつかって心に穴が空いたような気持ちになることもあります。そういうときに私たちは、その穴をなんとか早くふさぎたいなという気持ちになるものです。そしてあれやこれやと求める。しかしそのような人間の求める思いというものは、ある危うさを持っていると思います。 端から見ているとなんであんなものに引っかかったんだろうかと不思議でならないような教えに引きつけられていく人がたくさんいます。「こういう品を買うと幸せになる」などと言って高額な商品を買わせるということもあります。そんな怪しげなものにどうしてお金を払うんだろうかと思いますが、でもそれは、他人事ではないのです。私たちは心の穴をなんとか埋めたい。でも何が埋めてくれるのかわかりませんから、必死で探します。そして誰かが「これです」と言うと、その声に引きつけられていくのです。何か支えを求めて生きているつもりが、かえって自分を見失ってしまうのです。
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●あなたは既に神様の愛の中に |
しかし福音には、「これをつかめば素晴らしい人生が開かれます」というようなことはありません。そうではなくてむしろ、既にあるこの命、この人生がどういうものか、その本質を福音は示すのです。これを手に入れないとダメですよということではなくて、あなたの人生はもう既に神様の愛の中にしっかりと据え置かれたものです。そう指し示すのです。福音は、「あなたがこうすれば救われます」というようなものではないのです。ただ神様が私たちを愛してくださる。それが福音です。自分で必死につかみ取って浮かび上がっていこうというのではなくて、もう既に神様が私たちを愛し、私たちの命を揺るがない土台の上に置いてくださっている。そこに気付き、目を開かれ、そこに立って生きていくのです。
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●人の願いと神様の御業 その間に立つイエス様 |
今ここでイエス様のところにやって来て、必死に求めているこの人たちは、神様の愛を信じてイエス様のもとに集まってきているのでしょうか。そうではありません。それこそ藁をもつかむ思いでやって来ているのではないかと思います。 ファリサイ派やヘロデ派の人たちはイエス様を殺そうと思っている。でも大部分の人たちはイエス様を慕って押し寄せてくる。しかし、やがてこういう必死の求めは、ファリサイ派の人たちの思いにかき消されていってしまいます。そしてついにこの人々は、イエス様を「十字架につけろ」と叫んだのです。求める人間の姿の危うさを思い知らされます。イエス様はこの人たちに対してどのように接したのでしょうか。 「イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。」(9節)イエス様は逃れる手だてを確保されたというふうにも読めるところです。でも、実際にはイエス様はここでは舟にはお乗りにならなかったようです。この船はどうなったんでしょうか。 小舟を用意された。この一節に、イエス様の歩みの本質がよく現れているんじゃないかという気が致しました。イエス様がここで小舟を用意されているということの中に、イエス様の周りに押し寄せてきている人々の願いや求めと、神様の救いの御業、その間に立ってしっかりとご自身の道を見定めて歩んでいらっしゃる、そのイエス様のお心を垣間見ることができると思ったんです。 舟を用意しなければ押しつぶされるほどの危険に身をさらしていたならば、舟が来た段階ですぐに岸を離れてしまえばすむはずです。でもイエス様は結局、舟には乗られませんでした。人々がイエス様のもとに押し寄せてきているところからご自身の身を引こうとはなさらないイエス様のお心が現れていると思いました。人間の求めというのは勝手なものです。今ここで「イエス様、イエス様」と言っていても、そのうちに「イエス様など知らない」と人々は心を変えます。あるいはイエス様を救い主と信じるというよりは、自分の求めをただぶつけている。そういう人間の求めを、イエス様は決して軽んじられないのです。そこに留まって、人々と向き合われるのです。 ではなぜ、小舟を用意するようにとおっしゃったのでしょう。私は、イエス様が人々の願いをしっかりと受けとめながら、でもその願いや求めに飲み込まれてはならないというご自身の歩みをも見ていらっしゃるのではないかと思いました。 ただ人々の求めに応じて、それですべてが済むということではない。本当にこの人たちが救われる道、それを求め、それに向かって先を望み見ていらっしゃるイエス様のお心がある。人々の思いや求めは危うく不確かです。今ここで病気が癒されても、それで神様を固く信じるかといえば、そうでもない。ただその人たちの要求に応えてあげて、それによって人々が神様の救いの中を生きるのではないのです。 その人々の要求に押しつぶされ、飲み込まれてしまうということをよしとはされていない。そのお心が、「小舟」という存在に現れているなぁと思います。今、この人々の願いに応えることと、真にこの人たちが救われねばならない、そのためのこれからの歩み。その両方を、イエス様はしっかりと見ていらっしゃると思ったんです。人の求めを知ってくださるイエス様です。私たちの求めを受けとめてくださるのです。しかしただ私たちの要求を受けとめてくださるだけではなく、本当にこの私たちが救われる道、それを見つめて歩んでくださる。そこへと導いてくださるのです。
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●私の生き方もイエス様に倣うものと |
このイエス様の様子に触れて、イエス様に従うという生き方を改めて知らされたように思いました。このイエス様に従うということは、私の生き方もイエス様に倣うものとさせていただくことではないかと思ったのです。 私の求め、私の願いを見つめる。それはイエス様もしてくださったことであります。それは同時に、私たち自身の危うさや弱さをも見つめることにつながります。そういう自分自身の中にある思いを否定するのではなくて、それをしっかりイエス様は受けとめてくださいました。ならば私たちも自分の中にあるありのまま、自分の生涯にいつも離れがたくつきまとっている有り様、自分の現実を決して否定する必要はないのです。 しかしそれだけでありません。私たちはその自分の現実や自分の姿を受けとめ、見つめながら、それにただ流されるような生き方はしないということです。現実は現実としてしっかりと見つめながら、同時に、私たちの命は神様の愛という強固な土台の上に据えられた人生であることを見据えて生きる。そういう二つの事柄を私ども自身の中にしっかりと持って生きることができる。これが神様によって命の土台を据えられた者に与えられる生き方ではないかと思います。
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