さあ、砕かれ、泣こう。イイススの愛に。

「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
(マルコによる福音書10章45節)

主はエルサレムへ向かう道で弟子たちに予告しました。
ご自身がやがてエルサレムの宗教的権威者たちに捕らえられ、ローマ人たちに引き渡され、「あざけられ」「つばをはきかけられ」「むち打たれ」「ついに殺されて」しまう。しかし三日目によみがえるだろうと。

弟子たちにはこの意味がわかりません。
彼らはついに到来したメシア、救世主・イイススによって、長い間イスラエルを苦しめてきたローマ人の支配が打ち破られ、民族が解放される、そう思い込んでいました。
だから、主がこれほどあからさまにご自身の惨めな死を予告しているのに、耳をふさいでしまいます。それどころか事もあろうに、イイススの王国が実現したあかつきには、自分こそは良い地位に就けていただくのだと、互いに争う始末でした。

イイススは弟子たちを諌めました。
わたしの王国は他の王国とは違う。強い者が人々を支配するのではなく、お互いがお互いの僕として仕え合う国となるのだ。わたしが来たのも「仕えられるためではなく、仕えるため」「また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」。
主イイススはたくさんの教えや戒めを語りました。しかし、それでもなお、主がこの世に来られたのは、教えたり戒めたりするためではなく、私たちに「仕える」ため、私たちに「命を与える」ためだと仰るのです。

現代人は、自分の夢や望みを大切にし、その実現に向かって力を尽くすことが豊かな生き方だと教えられています。
子供の時から「夢のない生き方なんて人間の生き方じゃない」と育てられた私たちは、夢や望みの実現のためにはすべてを自分のための手段にして、いつも目標に向かってまっしぐらに生きています。逆にそうしない人間は、消極的で無気力な落伍者、「負け組」として軽蔑されます。私たちは「勝ち組」たるべく、すべてを自分の僕として自分に仕えさせて生きようとしているのです。

間近に迫った復活祭を前に、私たちも、主の弟子たちと共に、主の受難と死に、面と向かわなければなりません。
神であるお方が、私たちに仕えるため、命を与えるために、受難し、死をお受けになったという事実に、張り倒されなければなりません。
私たちのために苦しみ、私たちのために死んだ主イイススを、身じろぎもせず見つめなければなりません。
人を従わせ、人を利用しようとしか考えない私たちです。人を仕えさせようとする己の姿に気づき、立ちすくまなければなりません。

そんな私たちのために命を投げ出した主イイスス、神であるお方の愛に、砕かれ、泣かなければなりません。
(文責・月刊誌編集部)


「光、イイススというお方」
ゲオルギイ松島雄一(日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭)
マルコ10:32b~45
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