「一応、信じている」

大学時代に無神論者の先輩から「石居くん、クリスチャンなんだって?」
と聞かれ、「まあ、一応…」と答えたところ、
「信じてるって何?」「神さまを信じてるって一体どういう事なの?」などなど、
沢山質問されてしまった思い出をお話下さった石居先生。

まるでその矢継ぎ早の質問は、
「石居基夫、お前はそこで何をしている」
という神さまからの問いに思えたのだそうです。
「自分は何を信じていたのだろう」
それは先生が神学校に進み、牧師となる初めの一歩となった出来事でした。

「まあ、一応…」
私もこの言葉を遣いがちなのですよね。
とりあえずカドが立たないし、余計な責任を負うことがない。
私もちょっとした口癖になってしまってるかもしれません。

でも、「一応、信じている」という響きの本当に後味の悪いこと…。
自分も中学生ぐらいのときに全く同じ経験をしたことがあるのです。
何を自分は曖昧にしたがっているのだろう…と思わされました。

ふにゃふにゃで場当たり的でなんとも頼りない私の信仰。
でも、やはりそこで問いかけてくださるのが、主イエスでした。
「お前は何をしている」と。
私の確固たる意志で、一人で、信仰を建て上げるのではなくて、
この方こそがお声をかけて下さる。

「生き方が問われ、信仰者として何をすべきか、考えさせられる時がある。そこに神学が働く。」
と石居先生はおっしゃっていました。

人と人との信仰の対話の中で、そして、神と人との対話の中で。
十字架の主の御想いの前に「一応」だなんて、寂しいことを言わないキリスト者でありたいのです。
神学は、そのための心強いパートナーになってくれるのですね。
今の自分と神をみつめ、そして人に伝えるためにこそ、しっかりと学びたいと思います。


神が問われる―私たちの対話的教義学講座
石居基夫(日本ルーテル神学校校長)聞き手:長倉崇宣
毎月第一金曜更新
第1回「今、神学するということ」

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