人間の努力ではなく神様が与えてくれる???

FEBCスタッフのよな子です。
今年2018年は冬季オリンピックの年ですね。
皆さまには応援している選手はいますか?
代表に選ばれた選手たちの並々ならない日頃の努力を思うと、どの選手も応援したくなっちゃいます。

でも必ずしも、一番努力した選手が一番になるとは限らないのですよね。
スポーツの世界に限らず、努力が報われないことは人生にもありますよね。
じゃあ、報われなかった努力って無駄なのでしょうか・・・。

少し前に、リスナーのマイコさんからこのようなお便りをいただきました。

先日、FEBCの番組感想ページに「平和を望んでおられる神が生きておられる。そのうえで私達は努力する」という感想がありました。

確かにそうだとは思うんですが・・・。

人間的な努力ではなく、すべて神さまが与えてくれるっていうのをいつも放送などで聞いているので、こういうのを読むといったいどっちなのか、よくわからなくなります。
それならそれで、いつもの放送でも、人間的な努力や進歩なんかも肯定してくれればわかるんですけど。
わかるようなわからないような・・・。


マイコさん、ありがとうございます。
私自身はぜんぜん努力家ではなくて、どちらかというと怠け者のほうです。
それでもやっぱり、自分で考えたり悩んだり求めたり、何かを決めたりしながら生きています。
これを書いている今も、なんと書こうかと頭をひねっているところです(汗)。
それらは、私のしている努力なのだと思います。
きっとマイコさんも、マイコさんの生活の中での努力を積み重ねているのではないでしょうか。

聖書も、そうやって努力しながら生きている私たちを否定していないと思うんです。
たとえばこんな言葉があります。

「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ人への手紙12章1、2節)

忍耐強く走るのは、私たち人間なのですよね。
神様が走っとくから、人間はボーッとしてていいよ〜というわけではなくて。
しかも「自分に定められた競争」とあるから、きっとマイコさんにはマイコさんの、よな子にはよな子の、一人ひとりにそれぞれの走り抜く場があるのでしょうね。

・・・と、ここまで書いていて、ふと思ったのです。
私は「競争」とか「努力」というと、どうしてもその結果を気にしちゃいます。
でも実はそういう結果を気にしてるのは人間だけで、神様は気にしないというか、もっと別のことを大切にしているのでは?

だって、ここに書いてあるんです。
「信仰の創始者、また完成者であるイエス」って。

一人ひとりに定められた競争は、イエスがスタートで、ゴールもイエス。
最初から最後までぜーんぶイエス様につながってる、
だから、結果がどうかよりも、この「イエスを見つめながら」というのが大切なんだと思います。

そして神様は、もう与えてくださったのですよね、イエス様を。
努力の結果としてではなくて、もう既に。
だから私たちの努力や挫折も、転んでも倒れても怪我して傷ついても、起き上がってまた転んでも、そのすべてはイエス様に出会うためなのだと思います。

マイコさん、お便りありがとうございました。
なんだかマイコさんの疑問には答えられていないのですけれども、またお感じになっていることをお寄せいただけたらうれしいです。
ご一緒に考え、また神様に尋ねていけたらと思っています。
信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら。

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