10月17日更新 |
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| 「自分を取り戻すバスを待つ隣りで」 |
2002年のクリスマス礼拝で洗礼を授かったことを手紙でお知らせして以来、お便りもせず、放送もあまり聴いておりませんでした。番組の始まりで「主はわが飼い主」が流れていた求道中がなつかしく思い出されます。 2001年春に糖尿病と診断され、高脂血症もあり、2003年末からは心の病にもなり、その後も心筋梗塞、脳血管障害と次々に病を抱え込んでしまいました。幸い心の病はだんだんと良くなりつつあります。 ある礼拝の時の聖書箇所で「神様は人にいやす力をお与えになることがある」というみ言葉がありました。私は牧師先生と心療内科の先生のことを思いました。それを心療内科の先生に話しましたら、先生は「あなたが自分を取り戻すバスをバス停で待っていて、そのバスがいつ来るのかわからない。私はあなたが一人で待っていることがないように、隣に座っていただけですよ。あなた自身の心の中で、自分をいやすスイッチが入ったのですよ。ようやくバスが来ましたね」と言われました。 イエス様はこんな形で救って下さるのですね。病院の先生方、牧師先生、教会の皆様…イエス様が多くの人々を私のために遣わして下さり、感謝しています。どうぞ、私にも何かなすべきことを命じて下さり、用いて下さいと祈ります。 | |
男性 | |
10月9日更新 |
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| 「だが待てよ、立ち止まって考えてみよう」 |
今回はヨハネ第十三章の洗足の話に圧倒されてしまいました。聖書に貫かれている愛の根源に触れた思いでおります。十字架に向かわれる主イエス様が、弟子の足を洗い、そしてあなたがたもするようにと模範を示し、新しい掟として「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったこの章。 ガイドを読む前は、この「足を洗うこと」がどんなことを意味しているのか分からずに、ひとつの奉仕の業として読んでおりました。 だが待てよ、主イエス様がわざわざ模範を示した箇所だから立ち止まって、その意味を考えてみようと、何度も何度も繰り返し読みました。 すると、足を洗うことが、十字架の贖いにつながっていることに気づきました。主イエス様は、足以外は自分で洗い清めることができる、とおっしゃっていました。足は地面と接するので穢れがついてしまい、自分で洗うとその穢れに触れることになる。自分が穢れてしまい、清めにならない。だから専門の奴隷に洗足させるのでしょうか。その洗足を主イエス様がなさった。イエス様は、弟子たちの穢れを清め、ご自身が弟子たちの穢れをわが身に引き受けなさったのですね。 そう考えた時に、この模範は、主イエス様が十字架で贖ってくださった罪の赦しと同じことであることに気づきました。私たち一人ひとりの足を洗うようにして、一人ひとりの罪を贖ってくださった主イエス様。洗足は罪深き私たちが主イエス様によって贖われた証なのですね。だからこそ、お互いを愛し合う証なのですね。 お互いを愛するということは、自分から穢れを引き受けて、友、隣人を清めることを意味しているのだと気づいて、私は愕然としました。そのようにして、隣人と接しているだろうか、接したことがあるだろうか?まったく経験がありません。主に救っていただくことばかり考えていた愚かな私です。 神様、こんな私を愛してくださって感謝いたします。私が喜んで友の足を洗い、友を清め、友のために尽くすことができますよう、お導きください。そのようにして、隣人を愛することができますよう、どうか御手をさしのべてください。アーメン! | |
男性 | |
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