キリストに駆け込む

今回の聖書箇所には、独特の響きを持った喩えが出てきました。
「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、
夫が死ねば、自分を夫に結びつけていた律法から解放されるのです。」

(ローマ7:2)
うーん…わかるような、わからないような…。

でも、そこで加藤先生が「駆け込み寺」のお話をしてくださいました。
夫の酷い振る舞いに耐えられなくなった妻たちが、
離縁をするため逃れるという鎌倉の有名なお寺のお話です。
バレると力づくで連れ帰されてしまうので、「駆け込む」必要があるのでしょうね。
虐げられつづけた女性にとって、まさしくその逃れは喫緊の生き死にの問題でした。

そして、ちょっと乱暴な受け取り方かもしれませんが、
つまり私達と古い律法の結びつきは、
家庭内暴力の様な関係性だったのか…と私は新しく思わされたんです。

DV(ドメスティック・バイオレンス)の難しいところは、
被害者がその問題性を認識し、周りへと訴えかけなければ、
まずそれが顕わにならないことだと言われています。
でも多くの場合には、加害側の配偶者が
相手をあらゆる面で圧倒的に束縛・支配しているので、
最悪のケースにまで至ってしまう事もあるそうなのです。

自分が罪に結びついている時。逃げこまねばならないという時。
でも、この今こそが自分の生命線だと私は自覚しているかどうか…
私は「駆けていない」のでは無いかと感じました。
しかし一方で、この罪との関係においては、単にあのDV男をすっかり忘れて…と言う様に、
律法の問題を無かったことにしなさい、という事でもないのですよね。

「ところで、兄弟たち、あなたがたも、
キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。
それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、
こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。 」

(ローマ7:4)

むしろ、私達がキリストの体を通して律法に対して死んだのだと。
罪に支配されて、何も見えなくなっていた自分に
このお方は今、「私のもとへ来なさい」と呼ばれているように感じました。
不思議なことですが、そこで自分が死ぬ、自分のこだわりを捨てさせて頂くことそのものが
主の復活に連なる歩みの一つにすでにされているのですね…。

罪の世界において、自分をもっとも傷つけるのは、
結局は自分自身であったのかもしれません。
だとすれば…
私もこの唯一の逃げ場、主の御身体にこそ駆け込みたいのです。


加藤常昭(日本基督教団隠退教師、神学者)聖書をあなたに ローマ人への手紙(再)
加藤常昭(日本基督教団隠退教師、神学者)
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第46回「解き放たれて」

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