虚しさを選ばれしキリストの道ーもう一つの宗教改革

「宗教改革」と言われると、どんなイメージがありますか?
「腐敗した当時の教会に対抗して、聖書を重んじる信仰に立ち返り…」と、学校で教えられたかもしれません。しかし、それは本当でしょうか?

ルターやカルヴァンがヨーロッパで宗教改革者として活躍していたのと同じ頃、日本に一人の宣教師がやってきました。それは、あのカトリック司祭のフランシスコ・ザビエル。
彼が最初に目指したのは、実はインドのゴア。宣教の志に燃えた彼がそこで目にしたのは、しかし、現地の教会の腐敗した姿でした。失意の底で彼が出会ったのは、罪を犯してマラッカまで逃れてきた一人の日本人ヤジロウ。それぞれの挫折を抱えた者同士の出会いが、日本の福音宣教の扉を開いたのです。

ヨーロッパからは「最果ての地」である日本。生活習慣も文化も異なる国での宣教は、その許可を得ることさえ困難を極めました。しかも、彼が日本で活動した期間はたった3年弱。にもかかわらず、その間に彼が信仰に導いた数は2000人を超え、その後の爆発的なキリシタンの増加につながっていきます。その彼が日本で見たもの、そしてキリシタンたちに遺したもの。そこにある、「もう一つの宗教改革」を巡って、古巣馨神父と川上直哉牧師が対談下さいます。

この対談が行われた長崎・浦上。ここは、約250年間に及んだキリシタン迫害、そして72年前の原爆という歴史を刻み続けた信仰者の地。
不条理と苦難、挫折。キリストの教会が自らの道を示されてきたのは、いつでもその只中でした。
世界でも類例を見ない急激な少子高齢化と人口減少、共同体の崩壊…。この国の教会がこれから向かう先は、教会史上でも未曾有の現実。だからこそ、思い巡らしましょう。私たちの先達は、そこで何を選びとってきたのかを。

「宗教改革」に新しい光を当てる貴重な対談を、是非お聴き下さい。

ご出演:
古巣 馨(右) カトリック長崎大司教区司祭
川上直哉(左) 日本基督教団仙台北三番丁教会担任教師、東北ヘルプ事務局長

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前編


聴取期限1/19
(約35分)

◇◇◇

後編 


聴取期限1/19
(約35分)


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.歴史

年表
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.主な人物紹介


アッシジのフランチェスコ(1182-1226)

フランシスコ会の創設者として知られる修道士。中世イタリアにおける最も著名な聖人の一人。
裕福な商人の家庭に生まれ育ち、青年期には享楽的な生活をして過ごしていたが、幾つかの契機を経て、神の道に生きるようになる。中でも有名なのが、清貧の道を生きようとするフランチェスコと対立する父親に「全てをお返しします」と、その衣服までも脱いで返したというエピソードである。その「裸のキリストに裸で従う」という姿勢は、托鉢修道会という活動の形にもつながった。
彼の信仰理解は、その死の床でまとめられたとされる『被造物の讃歌』は、太陽や月、星までも「兄弟姉妹」と呼んで一緒に主を讃美しており、自然環境保護の聖人ともなっている。「フランシスコの平和の祈り」として知られている祈りは、実際には彼の祈りではないことが明らかになっているが、その精神をよくあらわすものとされる。
また、彼の生涯を描いた映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』は有名である。

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イグナチオ・デ・ロヨラ(1491〜1556)

イエズス会の創設者。
前半生は騎士として各地を転戦するが、戦闘中に負傷し、その療養生活中に読んだ聖人伝、特にアッシジのフランチェスコの生き方に感銘を受け、世俗的な生き方との決別を誓う。その後、彼に霊的指導を求めてやってくる人への指導内容をまとめはじめ、後に『霊操』として出版した。これ以前にも各修道会では様々な霊的修養は行われていたが、その方法は整備されていなかったものをまとめ上げ、初めて体系化した。これは、イエズス会のみならず、カトリック教会全体に大きな影響を与えた。
フランシスコ・ザビエルらと共にイエズス会を創設し、最初の総長に選ばれた。

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フランシスコ・ザビエル(1506〜1552)

イエズス会の創設メンバーの一人。1549年に日本に初めてキリスト教を伝えた人物として有名。
地方の名門貴族の家に生まれ、父は宰相であった。19歳の時に名門のパリ大学に入学して哲学を学んでいた時にイグナチオ・デ・ロヨラと出会い、決定的な影響を受け、聖職者を志す。1534年、ロヨラたちとイエズス会を創設。
当初より世界宣教を志していたイエズス会は、ザビエル他数名をインドのゴアに派遣。更にマラッカで日本人ヤジロウと出会い、日本宣教へ向かう。1549年8月15日、鹿児島に上陸。平戸、周防(今の山口県)を経由し、日本での宣教許可を得るために京へ向かうも、天皇や将軍と謁見することが叶わず、のちに周防や豊後(今の大分県)で宣教を行う。
更なる日本宣教のためには、日本に影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、1552年、中国へ向かうが、その途中の上川島にて発病し、46歳で天に召される。

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高山右近(1553〜1615)

戦国時代から江戸時代初期の武将。代表的なキリシタン大名の一人。千利休の高弟としても知られる。
父・友照の嫡男として生まれる。この父がイエズス会の修道士であるロレンソ了斎の影響を受けたことでキリシタンとなったことで、右近も10歳で洗礼を受ける。主君の和田惟政の死後を継いだ和田惟長に父子ともども疎まれ、謀殺されそうになり、深手を負いつつも危機を脱する。このことが右近のキリシタンとしての自覚を促すこととなった。
後に仕えた荒木村重が織田信長に謀反したことで、荒木と織田の間に挟まれることになった右近は、自ら所領を返上することを決めて織田信長の前に出頭。かえって信長に認められて所領を加増される。
信長が本能寺の変で討たれた後も豐臣秀吉に仕えるが、伴天連追放令が施行されると、信仰を守る代わりに身分・領地を捨てるが、前田家の庇護を得る。その後、徳川家康によるキリシタン国外追放令により、1614年マニラに追放され、現地にて天に召される。
人徳の人として知られ、蒲生氏郷や黒田如水他、多くの大名が彼の影響によってキリシタンとなった。