罪の無害化の果てで

日曜礼拝番組 全地よ 主をほめたたえよ
日本基督教団小岩教会・川島隆一牧師
2022年2月27日放送「閉ざされた神の国」マタイ23:13~15

FEBC月刊誌2022年2月号記事より

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律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。(マタイ23:13〜15)

 この言葉ほど厳しい主イエスの批判の言葉を私は知りません。

 律法学者は、国が滅び、王政が廃され、神殿が破壊し尽くされた暗黒のバビロン捕囚の時代、イスラエル再建のために立ち上がった人々です。彼らは正規の神学教育を受けた神学者であり、教師、また判事として活動し、捕囚後の祭儀集団・ユダヤ教の成立に大きな役割を果たしました。
 片やファリサイ派は、ペルシアの支配下にあった紀元前二世紀前半、ユダヤ教の伝統を守るために立ち上がった一般信徒の運動で、多くは商業や手職に携わる人々でした。彼らは敬虔な宗教者として、民衆一般がおろそかにしていた十分の一税を支払い、浄めの規則を守り、神の御心に適うための慈善活動、1日3回の祈りの時間を正確に守ること、そしてイスラエルの罪を償うための週2回の断食を行いました。
 「ファリサイ」という呼称がこの自覚を端的に示しています。彼らは敬虔な者、義人、神を恐れる者、貧しい者と名乗り、特に好んで「分たれた者」と称しました。この「分たれた」という言葉は「聖なる」という言葉と同義語になります。つまり、ファリサイ派は自らが聖なる人々、真のイスラエル、神の民であることを欲したのです。

 そのような人々に向かって主イエスは、あなたがた偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすだけではなく、改宗者を地獄の子にしている!と吐き捨てたのです。

 注目すべきは、主イエスが、彼らの神の意志に従うための真剣な努力や、慈善に励み、断食をし、経済的犠牲をいとわない姿を無視してはいない事です。主の眼にも、彼らは神の御旨を行うために努力している人間と映っていたのです。にもかかわらず、主イエスは敬虔な人たちこそ危険に瀕し、神から遠ざかっていると言われた。なぜでしょうか?それは、彼らが罪を真剣に受け止めていなかったからです。
 というのも、彼らの「決疑論」に拠れば、罪を大罪と小罪に分け、大切なのは大罪を犯さないことであるとされていました。この考えによって、罪を神に対する反抗と捉えられることがなくなります。また、同様に彼らの「功績観念」では、功績を罪の代償とみなし、終末の審判の時、功績の方が罪科よりも重くなっていれば良いとされていました。つまり、この「敬虔な人々」は、この決疑論と功績観念によって、いわば罪を無害化したのです。
 しかし、それは怖るべき結果をもたらしました。罪が真剣に考えられないところでは、人間は自分を立派なものと錯覚します。主イエスはそれを「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えで見事に描いてみせました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と。


 十字架のキリストに出会う前のパウロもそうでした。パウロは「フィリピの信徒への手紙」で、十字架のキリストを知る前の自画像を次のように描いています。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、…律法の義については非の打ちどころない者でした」と。
 しかし、このように誇りに満ちていたパウロが「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を糞土とみています」と言い、「わたしは、なんという惨めな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか!」と告白するのです。つまり主イエスの言葉を借りれば、自分こそが天の国を閉ざす「地獄の子」であったと叫んだのです。


 罪を無害化し、罪の自覚のない律法学者、ファリサイ人の、その害悪の根本に迫る主イエスの激しい非難の言葉は、しかしながら、群衆や弟子たちに語られた最終的な言葉ではありませんでした。最後の言葉—それは十字架の言葉です。

 その関連で注目したいのは、エレミヤが「悔い改めへの招き」の文脈で語った言葉です。

「立ち帰れ、イスラエルよ」と
主は言われる。
「わたしのもとに立ち帰れ。
呪うべきものをわたしの前から捨て去れ。
そうすれば、再び迷い出ることはない。」
もし、あなたが真実と公平と正義をもって
「主は生きておられる」と誓うなら
諸国の民は、あなたを通して祝福を受け
あなたを誇りとする。(エレミヤ4:1〜2)

 このエレミヤの言葉は、元々、アブラハムの召命で語られた言葉です。神は、人間の罪の世界を、命溢れる祝福された世界にするために、75歳のアブラハムを召し出し、地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入ると約束されたのです。その言葉が、預言者エレミヤを通して、バビロン捕囚という死の時代に再び語られたのです。しかし、イスラエルが神に立ち帰ることはありませんでした。


  では、この神の民は死のもとに横たわるしかないのか。神はエレミヤを通してこの問いに「否」と言われます。それが31章31節以下に語られた「新しい契約」で、神は命を提供されると言われる!

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。(エレミヤ31:31〜33)

 この「新しい契約」は、ナザレのイエスが十字架に上げられた日に成就したのです。

 神は、悔い改めて神に立ち帰る可能性のない罪人を救うために御子イエス・キリストを十字架に上げて、罪の贖いを全うされた。だから主イエスは、この救いを今、現在のこととして主の晩餐を制定されたのです。それ故、主の体とその血により天の国は開かれ、地獄の子たちは神の子となるのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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