わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。

嘆きに応える神の御言
金田聖治(日本キリスト教会上田教会牧師)
3月16日放送「満ち足りるまでに」(哀歌3:26~41)

FEBC月刊誌2022年3月号記事より

・・・

主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。 (哀歌3:26~30)

 誰でも神さまの慈しみの御手の中に自分が守られてあることをつくづくと味わいたいのです。けれど、それは、具体的にはどういうことでしょう。

 哀歌は、それを「静かに待ち望む」と言い、「ひとり座って黙している」と語りかける。そして、「静かにしている」とは、聖書ではしばしば「活動停止。じっと立ち止まっていること」を意味します。つまり、抱え持ったものをいったん手放して、静かに神からの助けを待ち望むこと。

 そこで耐え忍ぶための土台は希望です。希望がなければ、誰も忍耐など出来ません。では、その希望とは一体何なのかが問題となります。

われわれは、自分の行いを調べ、かつ省みて、主に帰ろう。われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう。 (哀歌3:40~41)

預言者エレミヤは、まず自分自身をよくよく吟味してみなさいと迫ります。そして「われわれは天にいます神にむかって、手と共に心をもあげよう」と勧めます。この私たちの祈りからすべて一切の偽善を取り除くようにと。いかにも信仰深そうな、真面目で必死な顔つきをすることも。「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れている」(イザヤ29:13)とイザヤが見抜いていた通りに。そうです。心が神から遠く隔たっている私たちです。

 ・・・

憐み深い神さま。私は、あなたの前に静まるよりも、自分の思いを優先してきました。苦しみに遭っても、あなたの前に静まることをしませんでした。自分の正しさにしがみつくしかできません。「自分」を自分では手放せないのです。ここから私を解き放って下さい。主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

 神の正しさと、人間の正しさ。この二つは決して両立しません。神は、罪深い私たち人間を憐れんで救おうとなさるからです。それが神の正しさだからです。そして私も、このことを自分ではよく分かっているつもりでした。でも、当の自分自身こそがちっとも分かっていなかったのです。

 私が神学生の頃でした。同じ学校で学んでいた少し年長の一人の学生に対して、私はこの人の普段の考え方や福音理解に問題性を感じ、先輩牧師にこの人は牧師になるべきではないと内緒で手紙を書き送りました。数日して、返事が届きました。こう書いてありました。「金田さん。あなたの言うことは正しい。ただ、同時に、他人に対して容赦なく、その弱点や不適格さを言い立てて非難する時、人は不健康になり、心を病む」と。まったくその通りでした。私自身こそが自分の中に荒々しく獰猛な狼を飼っていたのです。

 その彼こそは、私に預言者エレミヤを引き合わせてくれた道案内だったのです。もう30年も前のことです。彼はこう語りかけていました。

 「私たちは、誇るべきものを何一つ持たない裸の存在となってしまいました。愚かと呼ばれても自らの弱さと貧しさを真実に告白するしか道はありません。私たちは、これまで余りにも自らを誇りすぎてきました。傲慢、これほど厄介な罪はありません。罪の中の罪、罪の根であります。この罪を打ち砕くためには、全世界の力が結集されたとしてもなお足りないでしょう。小さな傲慢でも、これを打ち砕くためには、時折、再起不能の試練が必要とされます。使徒パウロさえ、サタンの使者と自ら呼んだあの忌まわしいとげを生涯持ちつづけなければなり ませんでした。言うのも辛いことですが、私たちは今、再起不能に近い状態にあります。しかし、私たちはこのときこそ感謝すべきなのです。ようやく恵みの道が見えてきたのですから。

『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ』との御言葉が胸に迫ってまいります。」

 (文責・月刊誌編集部)

 


 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>