3/11 イエスの死という「出来事」

聴く信仰—「いのち」をいただく御言葉黙想
山内十束(カトリック・御受難修道会、宝塚黙想の家司祭)
3月7日放送「十字架に導かれる人々」(マタイ27:54~61)

FEBC月刊誌2022年3月増刊号記事より

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百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 (マタイ27:54)

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

イエスの見張りをしていた異邦人は十字架上のイエスの姿を見て、その言葉を聞きました。彼らが、その言葉を理解したかどうかはわかりません。しかし、何かが変わり始めているということを感じた。

非常な恐れの中で「神の子だった」とつぶやいたことは、私は神を見ているのだ、と言い換えてもいいかも知れません。

片や遠く離れて、大勢の婦人たちが、十字架を見つめています。

またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。 (55~56)

この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従ってきた人たち、イエスの世話をしていた人たちであったということです。

イエスの日々を見ていたこの人たちは、イエスの十字架を遠くから、ずっと見つめていました。

マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母…女性の名前がはっきりと記されている。教会がまず広がりを持ったのは、女性たちの間であったとも言われています。彼女たちが伝えたイエスの生の姿。

そして、アリマタヤのヨセフが来ます。
彼も十字架の出来事を見て、イエスの言葉を聞いて、心が動き始めました。

夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。(57~58)

彼は、高い地位を持っていて、この世においての安定や幸せというものを持っていた人です。しかし、イエスの死の姿が、彼を動かした。

夕方、安息日の始まるまでの短い時間の間にヨセフは行動します。誰かに相談する間もなくピラトのところに一直線に向かって。

死刑囚の遺体を引き取ることができるのは親族だけです。ですから、自分がイエスの親戚であることを認めてもらう必要がありました。

ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。 (59~60)

イエスの遺体を収めたのは、自分のための墓です。
自分の名前が一番上に刻まれるべき墓です。

それは、私はイエスの弟子である、
イエスの言葉を信じ、これからも生きていく者なのだということの告白。

「この人もイエスの弟子であった」
58節の一文は、弟子とは何であるかということのマタイの理解と言ってもいいと思います。

そして、ヨセフは立ち去ります。安息日が始まったからです。

しかし、マグダラのマリアと、もう一人のマリアは、墓の前に残りました。

マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。 (61)

留まり続けた二人のマリア。
それは、何があっても、イエスのそばにいたいと願う、イエスを愛する者の姿。

イエスの十字架によって、大きく人生を変えられて行く物語。
イエスの導きに、自分たちの人生を委ねた人たちの物語。

イエスに従うとは、何であるか。
イエスを信じるとは、どうすればよいのか。

栄光は、父と子と聖霊に、初めのように、
今も、いつも世々に。アーメン。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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