クリスチャンの生命線

FEBC特別番組「秘跡的人間」
英 隆一朗(カトリック・イエズス会司祭、六甲教会司祭、カトリック麹町イグナチオ教会前主任司祭)
4月29日(金)放送

FEBC月刊誌2022年4月号記事より

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 私は以前、鎌倉の黙想の家で10年位黙想指導をしていました。その後、教会で説教をする前からブログで説教をアップしてもいました。熱心な方はずっとそれを見て下さっているのですが、教会で説教するようになってから何人もの方から「質が落ちた」「方針を変えたのですか」と言われたのです。自分としては何も変えていないし、自分も変わっていないつもりでしたので少々悩みました。何が一体変わったと感じられているのかと。

 そもそも黙想の家と教会とでは色々なことが違います。まず黙想の家では、聴く人の心が最初から神様に向けられていますよね。一方で教会では、日常のゴチャゴチャしたことを背負って皆さんが来られます。少し言葉は悪いですが、「邪気」に満ちている。もちろん、私自身の状態も全然違う。それは、何故だろうかと言えば、説教は生きた対話や呼応であり、その意味で交わりだからです。つまり私もまた、いつの間にか変わったのだということではないかと思います。

 そこで私は、初めてFEBCでお話した時のことを思い出すのです。最初はスタジオでマイクを前にしても相手が居ないので、中々話せませんでした。途中からカメラで撮影することになり、カメラマンがいることで物凄く楽になったことをスタッフに話しましたら、「カトリックの神父様は皆そう仰います。でも、プロテスタントの牧師先生でそう仰る方はあまりおられません」と言っていたように思います。それから、何故カトリックの神父は誰かが居ないと話せないのかと思い巡らしています。理由の一つは、プロテスタントでは原稿を用意されることがよくありますよね。しかし、カトリックの神父は滅多にそうしません。話すことを一字一句書くことは、まずない。なぜなら、そこで出会った人との対話として話をするからです。つまり「そこに誰が居るのか」が決定的に大事なのではないかということです。

 そのことはカトリックの神学校の学びからも言えます。実は、カトリックでは説教学の授業は何と選択科目なのです。その代わりに、必修科目なのは秘跡論になります。ご存知の通りトマス・アクィナスによれば、神の恵みの目に見えるしるしが秘跡なのですが、神様ご自身は見えないし、触れることも出来ない訳ですよね。しかし、それが目に見えるしるしとして現れているというのが秘跡の特徴です。プロテスタントでも聖礼典として守られる洗礼や聖餐。そこでは、洗礼の水が体にかかり、御聖体を食べ、神の恵みを頂いたことに疑問を挟む余地が無いくらい感覚的にはっきりしているものとして受け止められます。ここに大きな違いがあるのではないかと考えています。

 つまり、カトリックの考え方の根本には「秘跡的に物事を考える」ということがあるのです。プロテスタント教会と比べ、カトリック教会の説教はとても短いですが、それはどうしてかと言えば、ミサ礼拝全体が秘跡的だと考えるからです。ミサ全体に与って、神様を感じる。それが、信者は勿論、そうでない方々の心にも響くのだと思います。説教だけでなく、五感を通した神との様々な触れ合いがあり、イエス様の十字架と復活の御聖体の恵みを体で受ける。礼拝の形全体が、神様との触れ合いや交わりを深めることになっていくのです。だから、人間的な働きかけがなくても入門講座に来られたり洗礼を受ける人があるのです。それは、ミサ全体の秘跡的な「効果」ではないかと考えています。

 それは、現代に限ったことではありません。神父がいない中で250年間信仰を守った隠れキリシタン。彼らはなぜそう出来たかと言えば、一つには信仰共同体があったからですが、もう一つは「秘跡の記憶」にあるのではないでしょうか。ミサとは、最後の晩餐に再現的に入ることです。そこで、イエス様の十字架と復活をもう一度その場で体験し、恵みとしてキリストの体として御聖体を頂いて、生きる力を頂くことです。だからやはり、「秘跡的に物事を考える」必要があると思うのです。私たちの信仰は、言葉だけで物事は成り立っているのではないからです。言葉に伴う私たちの「あり方」が大事になってくる。私たち日本人は人を信頼する時、その人の言葉だけを信じるというよりも、その人の生き方を信じるものではないでしょうか。信者がある神父を信頼するという時、その神父が説教が上手か下手かではありません。つまり、語ることと私たちの存在や行いのあり方が問われている。例えば、「貧しい人を大切にしましょう」と説教で語ったとします。その時に、教会の中でその実践が無ければ、その言葉は嘘だということになるでしょう?何もやってないことを語ることに、どれだけの意味があるでしょうか。聖書の言葉をどう語るかの裏には、その言葉を語る責任が生じます。マザー・テレサはその典型例です。彼女が語る言葉は、ごくごくシンプルでどこにもレトリックはありませんが、彼女が「愛する」という言葉を発するだけで、私は圧倒されました。まさしく言葉と生き方が一緒なのです。もちろん私たちは普通の人間ですので、ズレてしまうのは仕方がないかも知れません。けれども本来、言葉と存在は一つです。それを無視し、あるいは忘れた中で、言葉を語ることは出来ないのです。押田成人という神父が、「事実や実践の裏打ちが無い言葉を語ることは近代社会の病気の一つだ」と語っていましたが、私たちの言葉はイエス様が語られたことと何の関係も無いことになっていくでしょう。

 それは言い換えれば、神様を信じられない状況が広がり、神の言葉が届かなくなる現代においては、神の言葉を「どう語るか」というよりも、それを「どう聴くか」という点に強調点が変わってきているとも言えます。かつてカトリックで著名であったカール・ラーナーの「人間の実存の中には超越に開かれた次元がある」といった神学はあまり理解されなくなり、中には夢物語と言う人さえいるように、その是非を超えて、この混沌とした社会の現実の中で神の言葉をどう聴くかという時代の欲求があると思います。では、どうしたら現代人は本物のキリスト教に出会えるのでしょうか。誤解を恐れず言えば、それは本物のクリスチャンとの出会いです。そうしない限り、現代人は本物のキリスト教には出会えないでしょう。では、本物のクリスチャンとは何か。それはつまり、目に見えない神を表す秘跡的なしるし、そういう人間です。大切なのは、私たち一人ひとりの語る言葉がどういう生き方に繋がっていくかということなのです。

 だからコロナ禍になってからますます、「十人のおとめ」のたとえ(マタイ25:1~13)のことを思い巡らしています。灯火を必要とするのは夜です。夜というのはつまり、危機的な時のことですよね。この中で灯火を灯し続けられるかが問われている。だから、そのために大切なのは、私たちがどう「油」を得続けるのかです。この世界がたとえ真っ暗であっても灯火を灯し続けるために、この油が必要とされているのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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