希望の道

わたしのエマオ 
片山はるひ(上智大学神学部教授、ノートルダム・ド・ヴィ会員)
4月28日(木)放送 「エマオ 希望の道」ルカ福音書24章13~35節

FEBC月刊誌2022年4月増刊号記事より

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 今日はエマオ途上として知られているところですが、上智大学にはエマオという学生グループがあり、その卒業生が週末にも集まるためにほそぼそと始まった祈りの輪には、だんだんと人が増えています。

 そして、このエマオの旅人の場面で心に響くことは、二人の弟子が私たちと同じ状況を生きているということです。今まであった日常が見いだせなくなる時に、どこか安全な場所を探して行きたいという想いですね

 だからその弟子たちはとても暗い顔していると17節にあり、そこにイエス様ご自身が近づいて来られる訳です。しかし、彼らの目は遮られていてイエス様とはわからなかったのですね。そこで、イエス様の方から訊かれます。「何を話しているんですか」と。ここはとても心温まります。イエス様が耳を傾けてくださっていますから。
 しかしこの二人の弟子は、イエスが現れたんだという仲間の話を信じていなかった。そこでイエス様は非常に厳しいこと言う。

ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。 (24:25~26)

 「預言者たちの言ったこと」とは旧約聖書のイザヤ書53章の「苦しむ僕」と言われる箇所です。さらに詩編22編の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わたしの神よ、わたしの神よ、なぜ私を見捨てられたのか)」の箇所ですね。こういうところをイエス様は弟子たちに説明されたのでしょうね。これは間違いないイエス様のカテケージス(信仰の伝統を通して教え、また学ぶこと)だと言えます。

 そしてイエス様は共に泊まるために家に入られます。

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。(24:30)

 これはミサの時に、司祭がする仕草です。ルカは、やはりエウカリスチア―感謝の祭儀―ミサのことを思って書いていたのだと思います。

 パンを裂くというのは、イエス様の死を象徴しています。そして、この苦しみと死を示すパン裂きをした時に、二人の遮られていた目がパッと開く。そして、イエス様とわかった。でも、わかった時に姿は見えなくなった。

 この見えなくなったというギリシャ語の言葉は、感覚で捉えられなくなったという特別な言葉なんだそうです。つまり、見えなくなったのだけど、実はそこにイエス様はおられたということです。そして弟子たちは、ここでイエス様の復活がわかった。そしてこれにより、彼らの心に炎が湧き上がってきます。

道で話しておられるとき、聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。(24:32)

 この火を灯したのはイエス様の現存です。そしてイエスの息吹である聖霊の炎が、この弟子たちの心を燃え上がらせたんですね。

 私が学生だった時に、とても親しい友達が癌になった。そして二人の小さな子供を残して、もう余生が短いということが分かった時に、電話で話した彼女の言葉が今も忘れられないものとして残っています。

 その時、彼女はこう言ったんですね。

 「はるひさんね、あの十字架の上で、イエス様が、『わが神、わが神、なぜ私を見捨てられたのか』って言ったのは、本当にそう思ったんだと思うよ」と。 さらに彼女はミサについてこう語ってくれました。

 「私は、 イエス様がご聖体を与えた時に、何かを残すんじゃなくて、自分自身を残したかったんだと思うよ。私も、何かを残したいんじゃなくて自分を残したいから。自分の子どもたちに、この自分自身を残したいから」と。

 ですから聖体は、イエス様が自分自身を残されたということだと思います。自分自身というのは、単なる霊だけではなく、体もです。だから私たちはこのミサに与る。イエス様が「とって食べなさい、これは私の体である」「これは私の血である」とおっしゃるから。血というのは命です。ですから、イエス様が自分自身を残してくださったんです。これが復活という意味だと思います。ですからミサというのは、私たちにとってイエスの復活の体験そのものなんですね。

 ただそれは、ルカ福音書にあるように見えない。感覚では捉えられない。でも、そこにイエス・キリストはいる。これが私たちにとってのミサの意味です。復活は、今ここにイエスはいる、そういうことです。

 私たちも、今この弟子たちのように暗いですよね。この先どうなるかわからないですしね。弟子たちも全て終わったと思っていたんです。全くの失敗に終わったと思われるイエス・キリスト。でも十字架のもとから皆逃げていってしまったのに、イエス様は復活した!復活して出会ったんだという弟子たちが現れた。そして教会は、この極東の日本にもやってきました。イエス・キリストを見たことがなかったのに、イエス・キリストに全存在を鷲掴みにされたフランシスコ・ザビエルによって。その後250年間の迫害の中でも信仰の火が灯され今に至っています。

 ザビエルのような聖人というのは、褒め称えるためにいる人ではありません。

 「私たちも大変でした。私たちも絶望の時を歩みました。でも大丈夫です」。この言葉を言ってくれるためにいる人たちですよね。

 ですから、もう希望がどこにもないと思われた時にこそ、聖書、特に旧約聖書から読んでいって神の民がどのように希望を鍛えられていったかを学び、日々を生きることができればと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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