マリア―インマヌエルをその身に受け入れた人間

弱さを捧げる者と共に―Sr.岡の祈りのエッセイ
Sr.岡立子(けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会)聞き手:長倉崇宣
4月5日、12日(火)放送 「マリア―インマヌエルをその身に受け入れた人間」

FEBC月刊誌2022年4月増刊号記事より

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—この4月から新番組として『マリアの風に乗って』の朗読を放送するのに合わせ、著者のシスター岡立子さんにご専門のマリア論について伺いました。

 神学の中でも非常にマイナーですが、マリア様という一人の人間を神様が信頼し、彼女の胎を通して生まれてくるということを考え続けています。何故って、これは凄いことじゃないですか!?出産ってそもそも大変だし、もし母親が不摂生したらお腹の子どもに影響しますよね。神様は、そこまでして自分自身を人間にお委ねになった。私は神様のこの人間への信頼に本当に感動するんです。

 ガラテヤの信徒への手紙に次の一節がありますよね。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(4:4~5)

  この受肉の神秘は凄いです。これが無ければ、苦しみ、飢え、疲れもするこの私たち人間の体をもって、神は死を滅ぼすことは出来なかったということですから。私たちは、このことをどこか当たり前のように思っているかもしれませんが、本当は信じられないことなんです。だから、この受肉の神秘に驚き感嘆する信仰の中で、古代教会の教父たちはマリアを見つめ讃えてきた。インマヌエル・神が共に居られるということの実現を受け入れた人としてです。
 それは、教会は古来から、個人主義的な信仰じゃなくて、「神の民の救い」を語っているからです。教会は、自分たちだけが救われるためにあるんじゃないんです。神様がお造りになった全ての人をご自分の許に集めるためにあるんですよね。よく賛否がある「マリア様への崇敬」は、そもそもその神の民全体から切り離してマリアだけを崇敬するのが良いとか間違っているとか議論している点でどちらにしてもキリスト教的とは言えません。

—その点は、私たち、とくにプロテスタントの人々には分かりにくいと思いますが、どうなのでしょうか?

 確かにそうですね。ただ確かなのは、この崇敬は、教会がまだ一つだった時からあります。だから、私たちの違いを超えて、歴史的に全教会共通の遺産です。
 人間マリアが、神をその胎に宿した。そのことに人々は驚いた。いや、それ以上にマリアが驚いた。だから、あのマニフィカート(マリアの賛歌)が生まれた。この賛歌は、古今東西の教会で唱え続けられている賛歌です。マリアは、私たちにとって信仰の先輩、それももの凄い先輩なんですよね。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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