聖なる甘え、変容への道

FEBC特別番組「コロナ時代のメンタルヘルス」 
酒井陽介(カトリック・イエズス会司祭、上智大学神学部准教授、心理学博士)
5月6日(金)放送「『傷』を通して御顔を黙想する」

FEBC月刊誌2022年5月記事より

・・・

—コロナウイルスの度重なる感染拡大により、精神的に幾重にも痛みを抱える方が増えているこの状況を、イエズス会の創始者であるイグナチオ・ロヨラの霊性からどうご覧になっていますか。

 イグナチオは戦争で右足に大きな怪我をし、そのことを契機に回心した人物です。そして、今年をそこから500年の節目として「イグナチオ年」として記念しています。しかしそれは、聖人の偉大さを祀り上げるようなものではありません。彼の体験した視点を通して、自らの「変容」の期間として捉えています。それは、すべてのなかにキリストを見ていく試みなのです。
 私自身も心理学を学び、以前イグナチオの「うつ体験」に関する書籍の翻訳を行ったこともあるのですが、近年、特に彼の心理についての関心に高まりがあります。
 さらに言えば、こういう精神状況については、聖書の中にもよくみられます。たとえば、旧約時代のハンナ、ヨブ、ナオミ、ダビデ、エリヤ、エレミヤ…そして新約時代になると、イエスに癒やしを求めた人々が出てきます。こころに重みを感じ、身動きが取れない状況とでも言えます。そしてきっと、彼らを受け止めようとするイエスご自身も人間として大きな痛みを抱えていたことだと思います。
 現代の私たちも、そうです。コロナウイルスは人間の生活のあらゆる部分に影を落としました。その中でもこころへの影響は「コロナうつ」と呼ばれることもあります。私の周りでも、つい三週間前に知り合いのイタリアの神父2人が感染し、亡くなりました。今も悔しいですし、怒りや問いが止みません。否応なしに、私たちは「いのち」について考えざるを得なくなっているのです。

 実はイグナチオも自死手前まで追い込まれた人でした。しかし、彼は現代で言うところの行動認知療法に近い形で、自分の行いや考えが表面的には良いものに思えても、時に破壊的なものになりうるということを知るようになります。そして、取るべき信仰者の魂のバランスともいうべきものを求め、一日の振り返りのために「意識の究明」という祈りを遺します。自分の意識の中でちぐはぐのもの、散らばってしまっているものを元に戻すためです。そこから彼は様々なことに気づいていくことが出来たのです。
 人間が自らに持つこの痛みは、しかし多くの人にとって「呪い」であり、「負け組」であるとされます。今の時代は、いともたやすく他人のせいにしてしまっています。SNSをはじめ、このような空気が蔓延している。私は、この痛みこそが、同じように痛みを抱える他者に繋がれるところになるのではないかと思うのです。だからこそ、ここには福音が必要なのです。
 少し飛躍すれば、イエスの福音とは、私たちの弱さや不完全さ、あるいは「罪」を一身に引き受けて死なれた—その生き様と死に様を分かち合うことだからです。信仰者と言えども、すぐ元の場所に引き戻されてしまう現実があります。だから、キリストがこの私の痛みにどう関わって、どう受け止めておられるのか?救われつつある自分は今どこにいるのかということを常に考える。それがなければ、他者の痛みには歩み寄れないでしょう。

—荒んだ心を抱えた私たちがこの罪の現実を他者と繋がるものとするか、それとも互いに傷つけるための契機とするか、微妙なラインの上に立たされているということでしょうか?

 はい。その意味で、私たちの信仰はメンタルヘルスにとって非常に有効なカギとなるのではないかと思います。自分たちの力が及ばない状況に私たちはどうするのか?私たちの信仰から言えば、マザーテレサがよく言われていた「トータルサレンダー(完全降伏)」の認識ですよね。どこまでも赦そうと近づかれる神に圧倒されることです。
 時に私たちは、「裁判官」「法律家」「口うるさい親」のように神を捉えるところがありますよね。だから逆説的なのですが、宗教者こそ「赦し」という事に関して厳しい態度を取ることがあり得る。実際にそういう研究データもあります。さらに言えば、人を許せない人は、案外自分も許せていないものです。
 実はイグナチオ自身も、回心の途上でこのことを経験していきます。正義感が強い人ほど、自分の失敗を受け止めきれないですからね。ですから、信仰者は今一度振り返る必要があります。自分は今、どのような神の前に自分を置いているのかと。そしてその時、私たちはイエスのまなざしに慈しみを求めて良いと思います。たとえ、私たちにとって都合が良く見える見方のようでも、全然問題ありません。だからイエスが今、慈しみ溢れた眼差しを向けてくれているのだと受け止めて、その祈りをぜひ実践して頂きたいのですね。それは、語弊を恐れず言えば、信仰者の持つことが許される「特権的な甘え」ですから。

—それが御顔を黙想するということなのですね。

 はい。イグナチオは、生来の完璧主義と戦わねばならなかった人で、逆に過去の過ち、不完全さ、その不安に囚われ続けた人間と言えます。だから、大切なことは、独りで抱え込まないことです。「ここまででいい」と過去の自分に別れを告げて、新しい自分を始めることです。私たちは、自分の人生の物語を受け止めて、生きていく必要があります。しかし他人の物語と比べても意味がありません。言うなれば、私たちは自分の生き方、自分なりの福音書を受け止めていくのです。イグナチオは、そうして自分の人生の物語を自叙伝として語り直して残しました。キリストに出会い、キリストにより変えられ、罪人であるけれども、今も生きていて、自分の人生を捧げる事が出来るように神の恵みが働いたという物語を。
 私たちに過去の物語を書き換えることは出来ません。しかし、新たなページを始めることなら出来るのです。このコロナの状況で、主イエスとの関係、社会との関係を捉え直していく豊かなきっかけとなればと願っています。

 (文責・月刊誌編集部)

 


 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>