
石垣弘毅先生による番組「罪人の頭たちの聖書のことば」
今回の放送では、詩編6編の祈りがテーマになりました。
主よ、憐れんでください
わたしは嘆き悲しんでいます。
…
主よ、立ち帰り
わたしの魂を助け出してください。
あなたの慈しみにふさわしく
わたしを救ってください。
死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず
陰府に入れば
だれもあなたに感謝をささげません。
わたしは嘆き疲れました。
夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
…
主はわたしの泣く声を聞き
主はわたしの嘆きを聞き
主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
(詩編6:3a、5〜7、9b〜10)
結果的には讃美のようであるけれども…なんとも暗い詩ですよね。
でも、石垣先生はこう受け止めます。
「死の国」から始まる6節に私は惹かれるんですよね。
現実を醒めた目で見ている気がするからです。
「今ここであなたに出会えなかったら、いつあなたに出会えるのか」と、
どこまでも現実に自分の軸足を置いて、祈っている。
むしろこれが私たちの見据えるべきリアルでは?と。
なるほど…と思います。
先程私も「結果的には」なんて言葉をつかいましたけれども、
この讃美に至るまでの過程を
すっかり無視しようとしている自分に気づきました。
でも、私たちの身の周りを見渡せば…
誰が「神の名を唱え」て、「神に感謝をささげ」ているでしょうか。
この「死の国」は他でもありません。
今まさに私たちの生きている所なのですよね。
だからこそ、とも言えるでしょうか。
「今ここであなたに出会えなかったら、いつあなたに出会えるのか」
そのような迫る切実さが今私に無いことに愕然とします。
あなたは、どうでしょうか?
この「死の国」において、自覚もなく、
切実さにすら欠ける罪人たちの歩み。
しかし、救いがあるとすれば、どこにあるのか。どのお方にあるのか。
ぜひ番組を通して、ご一緒に思いを巡らす事が出来ましたら幸いです。
