降りたところで


交わりのことば  —自分が先立つ私たちへの神の言  
中村 穣(飯能の山キリスト教会牧師、聖望学園聖書科教師)お相手・長倉崇宣
6月25日(土)放送「闇—十字架の主イエスを受け取るスペース・後半」マタイ19:16~30

FEBC月刊誌2022年6月記事より

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さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 (マタイ19:16~22) 


  私は「信じても苦しい」という経験を沢山してきました。頑張って、でも失敗して、もう駄目だとイエス様の十字架の前に崩れ落ちるような経験です。それを私は「降る信仰」と呼んでいるんですね。

  というのは、私のアメリカ留学での恩師が「聖書はどこを開いても『Vの字』が見える」と言っていたからです。「神であるイエス様が私達の許に来て下さる。十字架に架かって死んで、陰府にまで降って下さり、私達の罪を贖い、そして天に昇って下さった。聖書のどこを開いても、これを見なさい」と。だからこそ、私がイエス様の十字架の許に降る。その時、私の暗闇を照らす一点の光と出会い、そこでイエス様の栄光を見てきました。

  今回の聖書の箇所では、青年は悲しみながら立ち去っています。でも、もし彼がここに留まっていたら、どうなっていたと思いますか? 

 

  —それはたとえば、この青年が「出来ます。頑張って全部捨てます!」って言ったとしたら ということですか? 

 

 はい、そうです。きっとイエス様は「そうじゃない!」って仰るはずです。つまり、これは何かを握り締めている人間全体、つまり私たちのことです。

  私たちが一から開拓してきた教会は、田舎にある小さなところです。そこでは色々な問題を抱えている人を受け入れ、一緒に生活し、社会復帰するための支援活動を行っている。彼らは、上手く生きていくことが出来ず、ここに辿り着いてきました。実際、出来ないことは沢山あります。けれど、一緒に生活する中で、彼らは神様に向き直って「何も出来ません」と十字架の許に降るんです。そこで、その暗闇を神様が照らしているのだと知る体験を重ねてきました。「出来ない」という中だからこそ、素直にイエス様を受け入れる。

  私たちは何か自分が出来ることを差し出そうとする時、それは自分の思いを握り締めているだけかもしれません。主にあって手放した時に平安が心に来る。これが「降る信仰」なんだと思います。

 

  —となると、手放すとか委ねるということが大切なんでしょうか。 

 

 はい、確かに。ただ、それを目的にしてしまったら元も子もなくなるんですよね。委ねるのは、私たちが主イエスの十字架の許に降りて行くため。委ねる時でも、「私」が何かをしようとしてしまうところに、実は落とし穴があるんです。だから、私ではなくて、神が全ての始まりなんだということを常に見出していくことが欠かせません。 

 

 —この続きの「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(30節)というイエス様の言葉も、先頭切って神様のために何かを達成しようとか考えてしまう私たちと全然違うことをイエス様は見ておられるように感じました。  

 

  それがイエス様の福音の「Vの字」だと思うんです。私たちはその半分のポジティブな、上を向く・成長するというところしか見ない。けれども、神様には順番なんか関係無い。そんな小さいことを気にするような御方じゃないんです。そうではなく「降りた」ところで、遥かに超えた物凄い恵みがあるんだとイエス様は教えようとして下さっているんじゃないでしょうか。 

 (文責・月刊誌編集部)

 



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