6/6 イエス様が私たちを食べて、私たちははじめて一つとなる


わたしのエマオ 
片山はるひ(上智大学神学部教授、ノートルダム・ド・ヴィ会員)
6月23日(水)放送「キリストに食べられて、キリストの身体になっていく」ヨハネ福音書6章51~58節

FEBC月刊誌2022年6月記事より

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「…わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 (ヨハネ6:51~58)


 この箇所を今日の黙想のために改めて味わいながら祈っていたときに、改めて思ったのは、この箇所の生々しさでした。というのは、あまりにもこういうことを聞き慣れているので、あまり考えなくなっているのかもしれないのですけれども、ここに書かれているのは「人の子の肉を食べ、その血を飲む」事なんです。特にユダヤ人にとって、「血を飲む」事は、「血というのは命である」という理由で、律法において明確に禁じられていた行為でした。そのために動物の食べ方についても逐一いろいろな規定があったわけです。ですから、これをイエス様がこの人々に語った時に、やはりそこにどれほどの動揺があったことか。この「互いに激しく議論し始めた」というのは、当たり前だったと思いますし、そしてこの箇所のもう少し先にですね、こんな話を聞いていられないと言って、イエス様のもとから沢山の人が去って行ったと書かれています。それも当たり前のことです。しかも、イエス様はそのことをもちろんよく知っていて、これを語っているのですね。この箇所の前には、有名なパンを増やす奇跡が行われています。その時には全ての人が満ち足りて、このイエス様こそが、「イスラエルの国を建て直す理想の王」ではないかと、多くの期待が寄せられることになります。それをイエス様は振り切るようにこういう言い方をして、王として民衆に担ぎ上げられることを無くし、むしろイエス様を取り巻く空気の緊張が高まっていくわけですよね。ですから、この「人の子の肉を食べ、その血を飲む」という主のお話は一つの転換点に当たるような言葉だったのだと思います。 

 

 改めて思うのは、キリスト教というのは、食べたり飲んだりする事をとても大切にする宗教だなということです。人間が死なないためには、この食べたり飲んだりを決して欠く事はできない。それが身体を持つ人間という存在です。そして、このミサこそが、まさにこの食べたり飲んだりすることなのですね。しかも、何を食べたり飲んだりするのかというと、イエス・キリストの肉を食べ、その血を飲むのです。そして、何より胸に迫るのは、その肉を私たちに与えてくださるために、私たちと同じ肉をまとい、人間という存在になられたということです。ですから、本当にこの私とイエス様はこの同じ肉で繋がっているんだ、同じ血がそこに流れているんだ。この繋がりを、私たちはもう一度突きつけられています。これはそういう言葉なのだなと改めて思わされるんですね。私の教会の聖堂の壁にも、この十字架のイエス様がかかっているのですが、そのイエス様の姿をつくづく見て、「ああイエス様、あなたのこの肉を私は食べたので、私とあなたは同じ肉なんですね」と、この黙想中にも何だかしみじみと感じていたのです。 

 

 さらに聖アウグスティヌスは言っています。確かに私たちがこのパンをいただいているのですが、本当のところは実は「イエス様が私たちを食べているのだ」と。私たちがキリストに食べられて、キリストの身体になっていくのだと言うのです。どういうことかと言うと、聖体をいただく事は、私とイエス様だけの何かすごい個人的な関わりによるものというだけではなくて、聖体拝領に与る全ての者がイエス様の肉を食べることによって、イエス様の同じ一つの肉になるというわけです。結局、これが教会なのだということです。だから、教会はキリストの身体と言われますけれども、これは何かこの概念であるとかシンボルという抽象的な話ではなくて、本当に実はリアルなことです。だからこそ、これは三位一体のエリザベットの表現なんですけど、「キリストの身体の延長になっていく」。それは別の言い方で言えば、もう一人のキリストになっていくことです。だから、このミサとこの聖体が、いかに教会を作り上げていくのかということを思うんですよね。そして、私たち一人ひとりが繋がれて、もう一人のキリストになっていけば、それがキリストのわざをこの世で伝え、広げていくということになるのだと思います。「私が与えるパンとは世を生かすための私の肉のことである。」と主は語られました。私たちがどんなにちっぽけな身体だとしても、キリストになっていくことによって、この世を生かすためのキリストの身体となるのですね。 このヨハネ福音書の中には、イエス様がご聖体を制定する直接の場面は出てきません。ただ、それに匹敵すると言われる洗足の場面の前にこの一言があります。

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを 愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネ13:1)

  この極みまで愛された一つの証が、この自分の身体と血を私たちの食べ物と飲み物として提供されたということなのだと思います。いつもミサであの小さなホスチアをいただくときに、これはいったい、何なんだろうかと思う。もう、本当に小さなものですよね。どうして、これほど儚いものになられたのか、この信じられないあなたの愛は一体何なんですかと思うんです。食べ物になる、これ以上の謙遜はないのかもしれません。ヨハネの福音書の先ほど読んだ箇所では、イエス・キリストは弟子たちの足を洗いました。それは奴隷の仕事だったわけです。そこまで自分を低くされた。さらに食べ物になられ、この小さなホスチアになられて、そこまでして私たちと共にいてくださろうとした。だから、このちっぽけなこのエゴに満ちた私たちでもご聖体によって養われ、次第に変えられていって、小さなキリストとなって、この世の中で主の愛を伝えるための道具になれる。  

   コロナ禍で、いまだご聖体を受けることが難しい中で、多くの人がこのキリストのご聖体の意味を考えずにはいられない日々を過ごしていると思います。しかし、本当にこの神の愛の最高の贈り物がどういうものなのか、今一度自分に問いかけ、より深く噛みしめることができたならば、この長い期間は決して無駄ではなかったと言えるのだと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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