三つの種の喩えの織りなすハーモニー

わたしのエマオ 
片山はるひ(上智大学神学部教授、ノートルダム・ド・ヴィ会員)
7月28日(木)放送「三つの種の喩えの織りなすハーモニー」
マタイによる福音書13章3~9節 他

FEBC月刊誌2022年7月記事より

・・・

1.

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。 」 (マタイ13:3~9)

 この喩えを聞くと、私たちってこの土地のどれなんだろうかと思って、なんとなく切なくなってしまいます。ただ、この種蒔く人がものすごく大雑把というか、すごい大盤振る舞いをしてるなっていうことですよね。もう、どんどんバサバサ蒔いて一向に気にしない。道端に落ちるのもあるし、良い土に落ちないのもあるんだけど、気にしないで蒔いていく。そこで、もうちょっとその別の観点から、この種の神秘を考えてみたいと思います。


2.

イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」 (マルコ4:26~28)

   今度は神の国の喩えなんですね。見える形ではなく、私たちが何か一生懸命するからでもなくて、知らないうちに神の働きとして種が成長していくというものです。

   イエス・キリストが最初、わずか12人の荒くれ男たちと一緒に始めたこの冒険が、十字架によってTHE・ENDとなったはずなんです。けれども、そこから「いや、先生は復活した。僕は会った」「俺も会った」と言う弟子たちの証言から教会が生まれ、それから迫害があり、異端があり、様々な荒波を超えていく。その歴史の中で、この生命は成長することを止めなかった。広がっていくことを止めなかったんです。  

  ですから、この種が蒔かれた土地が、もし私たち自身だとすれば、それは神の恵み、特に洗礼のときにいただいた恵みというふうに考えることもできます。今のように心が沈むことばかりが多い時に、でも、この種の中に命があるんだ。その命は見えないけれども決して死ぬことがない。これはイエス自身の約束でしたね。そこで、次の三番目の喩え話も読んでみましょう。


3.

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。 (マルコ4:30~32)

 からし種は本当に小さくって埃みたいなんです。だから、もう悪いことしかないっていう声が聞こえて、どうせ私なんか祈ったって何になるんだって悪魔がささやく声が聞こえてきた時にこそ、この喩え話を味わってみたいと思うんです。これは幼きイエスのマリー・エウジェンヌ師がいつも言っていた言葉なんですが、「善は音を立てない。悪は音を立てる」って。確かに日々のニュースに溢れているのはまさにそれなんだと思います。

   一方で今、一生懸命勉強したり、自分の家族を介護したり、子供を育てるたくさんの人がいます。その善は音を立てない。この成長する種の喩えは、まさにそれだと思います。  確かにこの蒔かれた種はいろんなチャレンジを受ける。私たちもこの蒔かれた種を受け入れて協力しなきゃいけない。そこに一つの戦いがあります。でも、この種には命がある。この種は神の御言葉、イエス・キリストご自身なんです。この種は静かに成長し続け、その土地がそれほど良い土地ではなくても、その土地を掘り起こし、変えていってくださる力をその内に持っている。ここで、今日のこの喩えを味わってみたいと思います。

 (文責・月刊誌編集部)

 



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