あぁ!―聖書の真髄


罪人の頭たちの聖書のことば  
石垣 弘毅(日本基督教団中標津伝道所牧師)お相手・長倉崇宣(FEBCパーソナリティ)
7月13日(水)放送「『災いだ。わたしは滅ぼされる。』—イザヤ書、そして聖書のキーワード」(イザヤ6:1~13)

FEBC月刊誌2022年7月増刊号記事より

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ウジヤ王が死んだ年のことである。 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。 「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。  主の栄光は、地をすべて覆う。」 この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。 「災いだ。わたしは滅ぼされる。  わたしは汚れた唇の者。  汚れた唇の民の中に住む者。  しかも、わたしの目は    王なる万軍の主を仰ぎ見た。」  するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。 「見よ、これがあなたの唇に触れたので  あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」 そのとき、わたしは主の御声を聞いた。 「誰を遣わすべきか。  誰が我々に代わって行くだろうか。」 わたしは言った。 「わたしがここにおります。  わたしを遣わしてください。」 (イザヤ6:1~8)

石垣 

イザヤは、全能の神が目の前に現臨されたことに対して戸惑い畏れています。さらに「災いだ」とまで言っている。私は、こういう神様との出会いが、私たちが神様に大切な働きを委ねられていく時に求められているのではないかと思うんです。

 長倉 

なぜ、イザヤは「わたしは滅ぼされる」とまで畏れを感じているのでしょうか? 

 石垣 

私たちも「もっと神様を畏れなさい、御前に謙遜になりなさい」なんて言われることもありますよね?でも、畏れなどというのは言われたからといって出来るようなものじゃない。だからこの畏れは、イザヤ本人も求めていないのに神様の方から現れて下さったということを表していますよね。つまり、劣等感とか自己卑下とも違って、神様に触れられることで、自分が「被造物である人間」に立ち帰らざるを得ないということを表しているのだと思うんです。だから、神様の御前に立った時に人間の中で湧いてくるものとは、「私は何者なのか」ということではないでしょうか。 実は私は、教団の正教師試験の準備をしていた時、教会からも合格を期待され、受験の準備で何名かの病床にいた教会員をしばらく訪問出来なかったことがありました。それでやっと訪問出来た時に「石垣先生には失望した。とても悲しかった」と言われました。すぐその方に謝り、「一緒に祈りませんか?」と言ったのですが、その時は断られてしまいました。そこからの帰り道、私は真っ直ぐ帰れなくて、しばらく川辺に佇んで祈っていたんですね。

私にとってあの経験は、「私は何者なのか」という自らを問う出来事でした。それは私自身の至らなさに呆然と立ち尽くすようなことでしたが、正にそういうところで、神の現臨に私も触れさせて頂いた気がしました。聖なる神と出会うというのは、そういう自分の惨めなリアルな姿が突きつけられてくるところで、慈愛の神と出会う出来事なのではないかと思うのです。

さらにここで、このイザヤ書の箇所を扱った左近淑先生の著書の一節に触れたいと思います。

預言者イザヤが「ここにわたしがおります」という〈ここ〉とはいったいどこであろうか。今日信仰者はどこに、どのような姿勢で立つべきなのか。…(中略)…イザヤは近代人のような自律的人間のもつ自信とはほど遠い姿を示している。それは五節に示される。

 禍ひなるかな、我ほろびなん(文語訳)
 ああ。私は、もうだめだ(新改訳)

「ああ」とは、無限の情感のこもった悲しみと絶望を表現し、本来葬りの嘆きの声である。「わたしは滅びるばかりだ」という言葉は「わたしはもう駄目だ」とも訳される。〈自己の崩壊、内側からの完全な崩れ〉を表す。…(中略)… イザヤのいう「われここにあり」とは、このような内側からの崩れを経験している人間が、まったく他なる者によって、究極的に根底的に支えられていることを表わす。崩れ放しの人間は「われここにあり」とはいえない。これは罪のゆるしの宣言をその心底に聞き取った人間の、感謝にみちた発言である。

(「ゆるされた者の応答」、左近淑 著『混沌への光』より)

この「ああ。私は、もうだめだ」というのは、イザヤ書のキーワードかもしれませんね。「無限の情感のこもった悲しみと絶望」という、私たちには収まりきれない悲しみや絶望が、この「ああ」という言葉に込められている。旧約聖書に『哀歌』という書物がありますが、その『哀歌』という表題はヘブライ語で「ああ」という意味なんだそうです。

 長倉 

『哀歌』は「ああ」ですか!?

 ●石垣

 はい。実際、哀歌1章1節の冒頭、新共同訳聖書では「なにゆえ」と訳されている言葉が、この「ああ」なんです(ちなみに聖書協会共同訳聖書では「ああ」と訳出されている)。だから、これは上手く言葉にならないものなんですよね。 そして、この「ああ」は、新約聖書では次の箇所で使われています。

ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか。 (ガラテヤ3:1)

これは、イザヤ書や哀歌とはニュアンスは違いますよね。キリストから離れていくガラテヤの信徒たちの状況を見て、パウロが、いや、神様が深く嘆いている。 左近先生は「無限の情感のこもった悲しみ」と書いておられますが、日本語の「かなしみ」は辞書によれば、「悲しみ」「哀しみ」そして「愛しみ」とも書けるのだそうです。つまり、「かなしい」というのは愛することなのだと。だとすれば、この「ああ」には聖書の全てがある、そう思えてならないのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 


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