7/8 私たちのバベルの塔


日曜礼拝番組 全地よ、主をほめたたえよ 
青木 豊( 日本キリスト教会高知旭教会)
7月3日(日)放送「『悪しき協働』」創世記11:1~9、使徒言行録2:1~13

FEBC月刊誌2022年7月記事より

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 バベルの塔の物語は、いわば「人間の文明の傲慢」を戒める出来事として知られ、聖書には「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた」(創世記11:3)と語られております。ここで所謂、古代における技術革新が起こったのです。今までとは比べものにならないほど大きく、丈夫な建物を作ることができるようになり、それを用いて「天まで届く塔のある町を建て」ようとした。それを神様がお裁きになり、お止めになった。それは間違いではありません。けれど、聖書はもっと深いところを語っていると思うのです。  なぜなら、聖書の言葉を聞くと、神様はこの塔そのものを壊してはいません。神様がなさったことは、言葉を混乱させることであったのです。

我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。 (11:7)


 ここに非常に大事なことがあります。神様がなさったことは、お互いに意思が通じないようにさせる、つまり協力し合うことができないようにするということです。これは大きな謎です。なぜなら私たちは、小さい頃から教えられているからです。皆が協力し合うことは大事なこと。そのためによく話し合い、協力して一つのことを成し遂げましょうと。しかし、神様は、それを否定なさった。聖書にもう一度よく聴きたいと思います。

 

世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。 (11:1~4) 


   創世記に語られていることは、ずっと口伝えで伝えられてきたことで、最終的に文章になったのが、イスラエルの人々がバビロンで囚われの身になっている時で、恐らくこの塔のある町というのは、バビロンを暗示しているのではないかと考えられています。  

 そのバビロニア帝国ですが、当時の最先端の文明国です。周囲には城壁があり、町には高い塔が立ち、その一番上には、バビロンの神々を拝む神殿があったと言われています。古くから自分たちが語り伝えられてきたことが、バビロンの地にそのまま現れているのではないかと思ったとしても不思議ではありません。そして、考えたと思うのです。自分たちはかつてどうだったか、と。つまり、バビロンの人たちがしていることを他人事とは思えなかったのではないか。それは信仰からでしたが、イスラエルもまた立派な神殿を建て、それによって安心しようとした歴史があったからです。 

 

私たちは本質において、神様を信頼せぬ思いがある。

神様はこう仰っています。


「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」 (11:6)

   ここで併せて使徒言行録に聴きたいと思います。というのは、このバベルの塔の出来事の回復だと言われているからです。  神様が、人の言葉が通じないようにし、人が散り散りに外へ出ていったことへの答えの一つは、創世記12章から始まるアブラハムの出来事なのです。神様はアブラハムをお選びになり、神抜きに人が共に生きるのではなくて、神様の召しによって、人が共に生きる神の民をおつくりになる。それが時を経て遂にペンテコステの出来事に繋がっていくのです。 


     使徒言行録では、このように語られます。


人々は、驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」 (使徒言行録2:7、8) 

 

     「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」 (2:11) 

 

   ここでは、言葉が一つになった訳ではないのです。言葉はバラバラなまま。しかし、語ることはひとつです。しかもそれは、人間ではなく神様のなさった業を語る。そうすると、バベルの出来事と全く違うことが分かります。バベルの時代は言葉は一つでした。そして、人間が偉大な町を作ろうとしたのです、神様抜きで。それに対して神様が遂になさったことは、神の業を、別々の言葉で皆が語ることでした。  

    

   この後、使徒言行録2章14節以下で、聖霊を与えられて人々が語ったことから、ペトロが改めて神様の救いのお働きを語ります。その中心にあるのは、イエス様が十字架につけられて殺されたことです。神からの救い主を、人間が自分たちの力によって殺してしまった。それは、神なしに生きようとしたということです。  

   しかし、神様は、その私どもの罪をお引き受けになられた。私ども罪人と共にあるものとなってくださった。それが、主イエスの死と復活の出来事です。それは人間のどんな力よりも強いとペトロは語ったのです。  それがペンテコステの出来事であり、神の答えなのです。そして、ここから使徒たちは全世界へと散らされていきます。

     私たちの本当の幸いは何か、本当の安心は何かということを、このバベルの塔の出来事は、繰り返し呼びかけていると思います。人が、このイエス・キリストから離れ、外れるならば、際限なく飢え乾き、そのため、より力を合わせて強く、より大きくなっていくに違いないと思う。その虚しさと恐れを埋めるために。

 

  だから、もう一度聴きましょう。裁きであり、神様の救いを約束する言葉に。 

 

主は、彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 (創世記11:8)



 (文責・月刊誌編集部)

 




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