枠から外れるメシア


喜びここにはじまる —マルコによる福音書 
平野克己(日本基督教団代田教会牧師)
8月27日(土)放送「『メシアを超えるメシア』」 マルコによる福音書12章35~37節

FEBC月刊誌2022年8月記事より

・・・

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。…ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」(マルコ12:35、37)


 ユダヤ人の間では、長くローマに支配される中で、やがてメシアが神様から与えられるという待望がありました。異教の民の支配に抗い、ダビデの子孫から新しい時代をつくるメシアが現れるという期待です。それは、21世紀に入り、それまで想像もしなかったことが次々と起こり、世界の滅びを描く映画のように悪い想像が現実になっていくような現代に生きる私どもと通じるところがあります。「メシアが来て欲しい」という二千年前のユダヤの民の心です。

 律法学者はダビデの子孫からメシアが生まれると言っています。しかし、現実のメシアは、「ダビデの子」というイメージを遥かに超えていました。罪人や徴税人だけでなく、それどころか異教のローマにまで救いを与えるとは誰も思いも寄らないことでした。メシアが一人ひとりを訪ねるために、これほど低きに降られるとは。この全く律法学者たちの手に収まらない存在がメシアだったのです。

 パウル・ティリッヒという神学者が残した言葉の中に、「神を超える神」があります。私たちは「神」という言葉を使って生きています。けれど、その言葉では言い表せない時が来ます。「神がこんな不幸を味わわせるわけがない。私を放ったままにするはずがない」と。こんなふうに、自分の神のイメージが壊れてしまうのです。そして、神を呼べなくなる。けれど、その時こそ神ご自身が私どもの中にやって来て、「私だ」と語りかけてくださるのです。それが主イエスなんです。主イエスはダビデの子孫という枠から外れて、自分ですらこんな自分は赦されないと思ってしまう私を赦される。主の十字架より深く大きな罪など私どもは犯すことができないのです。メシアはメシアを超える。キリストはキリストを超える。愛に挫折し、もう愛せないと思う私どもを解き放つために主は来てくださったのです。

 (文責・月刊誌編集部)

 



 月刊誌「FEBC1566」購読申し込みページへ>>